ヤーコプ・ブルクハルト
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ヤーコプ・ブルクハルト(Jacob Burckhardt, 1818年5月25日 - 1897年8月8日)は、スイスの歴史家、文化史家。
[編集] 生涯
バーゼルにある大教会の説教師の子として生まれる。はじめに神学を学ぶが後に歴史学に転じ、1840年からベルリンに滞在し、ランケ、ドロイゼン、ヤーコプ・グリムなどの大家に学ぶ。美術史家クーゲラーの講義を聴いて深く啓発され、彼とは生涯にわたる親交を結んだ。1843年末にバーゼルで大学教授資格試験に通り、講師として歴史・美術史の講義を行い、かたわら「バーゼル新聞」の政治欄の記事を担当している。1846年に教職をなげうって「人間となるため」ローマへ行き、その間クーゲラーが編集する『芸術史綱要』と『絵画史綱要』の仕事を委嘱されて一年ほどベルリンに滞在している。1848年春には、バーゼル大学からの員外教授としての招聘に応じた。
1869年から1879年までバーゼル大学で古典文献学を担当していた哲学者・ニーチェとは親交が深かった。ニーチェの注意を世界史に向けさせたのはブルクハルトであり、ニーチェは他への書簡でも「この隠者のように人と離れて生活している思想家」について尊敬の念をあらわし、ブルクハルトの友情に感謝している。
1872年にベルリン大学からランケの後任として招かれるが、この名誉ある申し出は丁重に断っている。「生粋のバーゼル人として」故郷に骨を埋めるつもりだったからである。晩年の三十年は「印税のために書かされたり、出版屋の下僕となって生きる」ことを嫌い、著作活動をやめ、教育活動に専念している。1893年に公務を完全に退き、その四年後に心臓病で亡くなった。Bene vixit,qui latuit(うまく隠れて生きた者こそ、よく生きた者だ)が、ブルクハルトのモットーだったという。
[編集] 方法
1842年に彼は「私にとって背景が主要な関心事である。そしてそれは文明史によって与えられる。私はそれに身を捧げようと思う」と書いている。「直観から出発することができない場合、私はなにもしない」とも。ブルクハルトの場合、直観は概念より優先されるし、歴史事象そのものよりも時代の雰囲気に関心を持つ。彼の情熱は芸術と学問の歴史、「選ばれたもの」「偉大なもの」に向けられていた。卑しいもの、打算を軽蔑していたので、統治の技術や制度にも興味を持たなかった。ブルクハルトはヘーゲルを嫌悪し歴史哲学に関心がなく、体系をつくる人でもなく、あまりにも個性的であったので学派を形成しない。しかし、イギリスの歴史家グーチは「一時代や一国民の心理を解釈しようと志した歴史家にして、彼の泉から深く飲まなかった歴史家があろうか」といっている。
[編集] 著作
- 『ベルギー諸都市の芸術作品』1842年
- 『ケルン大司教コンラート・フォン・ホーホシュターデン』1843年
- 『コンスタンティヌス大帝の時代 Die Zeit Constantins des Grossen』1853年(筑摩書房)
- 『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き Der Cicerone』1855年(古代編が筑摩書房、建築編が中央公論美術出版)
- 『イタリア・ルネサンスの文化 Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch』1860年(中公文庫)
没後出版されたものとして
- 『ギリシア文化史 Griechische Kulturgeschichte』1897年(ちくま学芸文庫)
- 『ルーベンスの回想 Erinnerungen aus Rubens』1898年(二見書房)
- 『イタリア芸術史への寄与』1898年
- 『世界史的考察 Weltgeschichtliche Betrachtungen』1905年(潮文庫)
- 『ブルクハルト文化史講演集Gesamutausgabe,Vortröge』1929-34年(筑摩書房)