ユーリー・エハヌロフ
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ユーリー・イヴァーノヴィチ・エハヌロフ(ウクライナ語:Юрій Іванович Єхануров、1948年8月23日 -)は、ウクライナの政治家、前首相。第3期、第4期ウクライナ人民代議員。一等国家公務員。「イェハヌロフ」又は「イェハヌーロフ」とも。
キエフで建築と経済の教育を受けた。1960年~1970年代、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の建築組織で働き、1980年代末までにはキエフ市建築総局経済問題担当次長まで出世した。1990年代初め、内閣附属経済問題顧問、並びにキエフ市役所で働いた。1993年から1994年、経済次官を務め、その後1997年まで国有財産基金を率いた。1994年、ウクライナ産業・企業家同盟議長に選出。1997年、数ヶ月間経済相を務め、同年夏、ウクライナ企業活動問題国家委員会を率いた。
1998年3月、最高会議代議員に選出されたが、ヴィクトル・ユシチェンコ政権の第一副首相に任命されたため、1999年12月、代議員資格を手放した。2001年4月の内閣総辞職後は、ユシチェンコと協力関係を維持した。2002年4月、「我らがウクライナ」から出馬して代議員に当選し、産業政策・企業活動問題委員会委員長となった。オレンジ革命後の2005年4月、エハヌロフはドニプロペトロフスク州知事に任命された。
2005年9月8日、ユシチェンコ大統領は、ユリア・ティモシェンコ首相以下全閣僚を解任し、エハヌロフを首相代行に任命して、組閣を要請した。この首相人事は、9月20日の議会審議では否決されたが、9月22日の2度目の議会審議でようやく信任を得られた。しかし就任直後にロシア・ウクライナガス紛争が勃発した。2006年1月4日、両国は輸入価格の値上げで合意したものの、エハヌロフ内閣は国内で批判を浴び、2006年1月10日、議会から不信任決議案を突きつけられ総辞職した。しかし、後継首相が指名されなかったため、2006年8月4日にヴィクトル・ヤヌコヴィッチが後継に決定するまで首相代行職に留まっていた。2006年3月の選挙では、我らがウクライナの名簿順位第一位で当選。
[編集] パーソナル
ヤクート自治ソビエト社会主義共和国(ヤクーチア)ウチュル地区ベリカチ村出身、ブリヤート人。
キエフ建設技術専門学校(1967年)、キエフ人民経済大学(1973年)、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国ゴスプラン経済科学研究所大学院(1983年)を卒業。
名誉記章勲章、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国最高会議幹部会賞、ウクライナ閣僚会議名誉賞を受賞。
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