ヨーコ・ゼッターランド
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女子 バレーボール | ||
銅 | 1992 | バレーボール |
ヨーコ・ゼッターランド(Yoko Zetterlund。日本名、草野陽子(旧姓:堀江)。1969年3月24日 -)はタレント、スポーツコメンテーター。アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ生まれる。その後東京都中央区で過ごす。早稲田大学卒。
バレーボールのアメリカ代表選手としてバルセロナオリンピック(1992年)、ワールドグランプリ(1995年)、アトランタオリンピック(1996年)に出場。
1996年に東芝シーガルズ入団、翌1997年にダイエーオレンジアタッカーズ入団。1999年に現役を引退。
現在はザ・ワイドのコメンテーターとして活動しているほか、自らが所属する有限会社オフィスブロンズの代表取締役社長でもある。
2006年6月20日、そのザ・ワイドの司会者である草野仁の長男と再婚した。
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[編集] 経歴
1975年6歳の時、母(元バレーボール日本代表:堀江方子/ほりえまさこ)とともに日本に移住。文京区立第十中学校に入学、部活動として本格的にバレーボールを始める。1983年の全日本中学選手権で優勝、ベスト6を獲得。高校は母がヘッドコーチをつとめる往年のバレー名門高、東京の中村高校に入学、バレーボールに入部した。全東京メンバーとしては、国体優勝、中村高校では春の高校バレー、インターハイで3位入賞を果たし、全日本ジュニアメンバーとしては、アジアジュニア選手権での優勝を果たす。高校卒業時には、複数の強豪実業団チームが獲得に動き、業界・マスコミで一躍脚光をあびるが、1987年に早稲田大学人間科学部スポーツ科学科へ入学した。女子バレー部に入部した彼女は、当時関東大学リーグ6部最下位にあったチームを2部優勝まで導く。しかし当時バレー界では、全日本メンバーなどのトップアスリートになるためには、高校卒業時から実業団に入ることが暗に求められていたため、卒業後実業団バレー選手への道は閉ざされた。大学卒業前にはフジテレビに内定し一般OLの道を歩むことになっていたが、卒業直前の1991年2月に単身渡米し、アメリカナショナルチームの「トライアウト(入団テスト)」を受験、これに合格して新たにトップアスリートへの道を開いた。1991年3月、早稲田大学卒業後に再渡米し、ナショナルチームでの活動を本格的に始動。アメリカナショナルチーム入りを果たした翌年、1992年バルセロナ五輪で銅メダル獲得。 さらに1996年アトランタ五輪にも出場した。同年、実業団チームの東芝へ入団、1997年にダイエー・オレンジアタッカーズとプロ契約しVリーグでプレー。 休部予定のダイエーの3年ぶり2度目の優勝に大きく貢献し、ベスト6を獲得した。 1998年日本バレーボール界初のプロチームとなった オレンジアタッカーズ(現・久光製薬スプリングス)でプレーし、1999年の皇后杯黒鷲旗(全日本選手権大会)で2連覇。これらの大会でも ベスト6を受賞。1999年6月、現役を引退。 現在はスポーツコメンテーターとして、テレビ、ラジオ、雑誌をはじめ、講演、解説、バレー教室、エッセー執筆など幅広く活動している。2004年3月、有限会社 オフィス ブロンズを設立。自らが所属、取締役社長。2006年6月、キャスター草野仁氏の長男でチーフマネージャーを務める裕(ひろし)氏と結婚。
[編集] 主な球歴
- 1983年 第13回 全日本中学選手権優勝、ベスト6受賞(文京区立第10中学校)
- 1985年 第40回 わかとり国体優勝(鳥取県) (全東京チーム)
- 1986年 第17回 春の高校バレー 3位 (中村高等学校)
- 1986年 インターハイ 3位(岡山県) (中村高等学校)
- 1986年 アジアジュニア選手権 優勝(タイ) (日本代表)
- 1987年 世界ジュニア選手権 4位(韓国) (日本代表)
- 1987年 ユニバーシアード 10位(旧ユーゴスラビア)(日本代表)
- 1992年 バルセロナオリンピック 銅メダル (アメリカ代表)
- 1994年 世界選手権 アメリカ代表 6位
- 1995年 ワールドグランプリ アメリカ代表 優勝
- 1995年 ワールドカップ アメリカ代表 7位
- 1996年 アトランタ五輪 アメリカ代表 7位
- 1996年 第26回実業団リーグ 東芝シーガルズ 優勝/昇格
- 1998年 第4回Vリーグ ダイエーオレンジアタッカーズ 優勝/ベスト6
- 1998年 第47回黒鷲旗全日本選手権 ダイエーオレンジアタッカーズ 優勝/ベスト6
- 1999年 第48回黒鷲旗全日本選手権 オレンジアタッカーズ 優勝/ベスト6
[編集] 過去に出演していた番組
[編集] エピソード
彼女のバルセロナオリンピック出場までの生涯は、一度漫画化されている。
[編集] スポーツ解説・ワイドショーのコメンテーターとしての評価
基本的に彼女の解説は実況アナウンサーのオウム返し、見たまま解説であり、またワイドショーのコメントも的外れなコメントも多いため、ナインティナインの岡村隆史もナインティナインのオールナイトニッポンにて名指しで彼女を批判するなど、あまり高評価されていない。