ラシッド・ドスタム
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アブドゥル・ラシッド・ドスタム(Abdul Rashid Dostum, 1954年? - )はアフガニスタンの軍人で国防次官、参謀総長。同国のウズベク人で最大派閥を形成。ウズベク人主体の政党イスラム民族運動の元党首。
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[編集] ソ連のアフガニスタン侵攻
1970年代初め、ジャラーラーバード市の空挺部隊に召集。1978年の4月革命まで、アフガニスタン北部のジューズジャーン州の州都シバルガンの採油労働者だった。1979年から、アフガニスタン人民民主党党員。パルチャム派。1979年、地方の自衛隊に勤務。
1980年代、ムハンマド・ナジーブッラー政権で軍務に就き、第53歩兵師団長となった。この間、タシケントで、ソ連KGBの3ヶ月間の将校課程を受けている。同師団は、シャフナバズ・タナイ国防相の反乱鎮圧に貢献した。
[編集] アフガニスタン内戦
1992年、ナジーブッラー政権が崩壊すると彼を拘束。その後誕生したラッバーニー政権に協力の姿勢を見せるが、ラッバーニー政権下で台頭してきたターリバーンの工作によって1997年に部下、アブドゥル・マリク将軍の裏切りで失脚。一時トルコに亡命するものの、混乱に乗じて数ヵ月後復帰を果たしている。
1998年、ターリバーンは、ウズベク人勢力の拠点であるマザーリシャリーフに大攻勢を仕掛け、ドスタムは再びアフガニスタンを離れざるを得なかった。2001年春、北部同盟の北部総司令官に任命され、再び帰国した。アメリカのアフガニスタン侵攻では、マザーリシャリーフを奪還し、タリバン政権の打倒に貢献した。
[編集] ターリバーン政権の崩壊から現在まで
ターリバーン崩壊後は、新政権で国防次官、大統領顧問を歴任したが、その後辞任。2004年10月のアフガニスタン大統領選挙に立候補し、出身民族のウズベク人の絶大な支持を得て10%を得票し、第4位につけた。
2005年3月1日ハーミド・カルザイ大統領は、ドスタムを新設の参謀総長に任命した。それにともない、同年4月彼はイスラム民族運動の党首を辞任した[1]。2007年現在の党首はサイヤド・ヌールッラーである。ドスタムの起用は、議会選挙に向けて、選挙の平和的な実施のために、抵抗する軍閥を政権内に取り込むのが目的と推測される。しかし、参謀総長職は、国防相、陸軍参謀長など既存の役職との役割分担が不明確で、名誉職でしかないとの、観測もある。また、ドスタムの戦争犯罪について問題視する意見もあり、ドスタムの起用には批判も出ている[要出典]。
強力な私的軍事組織を傘下に抱えているためため、今後の国家再建の障害となるともされるが、ウズベク人の中心的人物であり、2001年のタリバン政権崩壊の立て役者の1人でもあるため、無下に扱うことができないのも事実である。
[編集] 人となり
ジューズジャーン州シバルガン郡ホジャドゥクフ村の農民の家庭に生まれた。父はウズベク人(又はキプチャク人)で、 母はトルクメン人である。 彼は非常に傲慢かつ残虐な性格で、権力のために他を顧みず、私利私欲のためだけに人々を苦しめると言われる[要出典]。しかしながら、彼は世俗的な環境で育ち、宗教的に過激なところはなく、彼の統治下では、住民に対する締め付けは緩やかだったともされる。また、旧共産政権下で軍人、官僚だった者達にとっては、ドスタム以外に頼れる場所は存在しない。