ラースロー・モホイ=ナジ
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ラースロー・モホイ=ナジ(Moholy-Nagy László, László Moholy-Nagy [ˈlaːsloː ˈmohoj ˌnɒɟ], 1895年7月20日 - 1946年11月24日)は、写真家、美術教育家。本名Weisz László(ヴァイス・ラースロー)。
[編集] 経歴
ハンガリーに生まれたが、政治的流動化のためにドイツに逃れ、のちドイツにおけるナチスの台頭により、イギリス経由でアメリカに逃れた。
ハンガリーではカッシャーク・ラヨシュ Kassák Lajos(1887 - 1967, [1][2][3]) のグループ「MA」に影響を受けるなどして、すでに前衛的な美術を志向していた。
ドイツ亡命後は、美術家として数年活動したのち、1923年から1928年までバウハウスに招聘されて、教鞭をとった。写真やタイポグラフィを積極的にその教育に取り入れるなど、革新的なアイデアを用いて、バウハウスの教育方針に決定的な影響を与えた。特に、バウハウス叢書の1冊として1925年に刊行された『絵画・写真・映画』(Malerei, Fotografie, Film)は、バウハウスや国を越えて、美術界に大きな影響を残した。
アメリカ亡命後は、シカゴにて、1937年にニュー・バウハウスをおこし、バウハウスの教育理念を、アメリカという新天地に根付かせようと奔走した。本人は志半ばで他界することとなったが、紆余曲折はあったものの、その理念は現在まで生き残っているといえるだろう。
写真における実制作活動としては、フォトグラムやフォトモンタージュを中心として、前衛的、実験的な作品を極めて多数制作し、ドイツ新興写真(ノイエ・フォト)の雄の1人として、世界に名を馳せた。バウハウスにおいて写真が隆盛を誇ったのは、モホイ=ナジによる「教育」もさることながら、この積極的な作品制作に拠るところが大きい。
[編集] 名前の表記について
彼は言語の異なる複数の国で活動したため、名前が多様に発音される。日本においては、姓について、「モホイ=ナジ」(ハンガリー語読み)、「モホリ=ナギ」(ドイツ語読み)、「モホリ=ナジ」(英語読み)が並立しており、今後いずれかの読み方に一本化される可能性は低いと考えられる。