リチャード・トレビシック
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リチャード・トレビシック(Richard Trevithick, 1771年4月13日 - 1833年4月22日)はイギリスの機械技術者で、蒸気機関車の発明者。一般にはジョージ・スチーブンソンが発明者と思われているが、後述するようにトレビシックが実際の発明者である。鉱山技師として高圧機関の開発に従事し、1801年には蒸気自動車を試作、1804年には初の軌道上を走る蒸気機関車を製作し、鉄道の歴史に大きな功績を残した。
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[編集] 概略
トレビシックはイングランドの南西部にあるコーンウォール (Cornwall) に生まれた。
当時、イギリスでは産業革命がはじまっており、蒸気機関の開発が進みつつあった。トレビシックも鉱山会社の技師としてボイラの開発に携わった。特に、従来危険が高いとして開発に手がつけられていなかった高圧で小形の蒸気機関を開発改良したことは特筆される。この開発がその後の交通機関への応用につながった。
彼は、鉱山技師の経験を活かして蒸気機関を用いた自動車(蒸気自動車)の製作を始め、1801年には蒸気自動車 Puffing Devil 号を試作した。
1804年には鉄製レール上を走る蒸気機関車を製作し、走行させた。鉄道の歴史の中では、最初の蒸気機関車を用いた鉄道とされている。しかし、この時代には、まだレールや蒸気機関車の開発で多くの課題を抱えており、本格的な鉄道の実用化までには至らなかった。
[編集] 蒸気自動車の開発
1801年に蒸気自動車Puffing Devil号を試作した。ごく初期の蒸気自動車の1つとされている。Puffing Devil号は試験走行ですぐに破損したが、1803年にロンドンで改良した蒸気自動車London Road Carriage(あるいはLondon Steam Carriage)号を製作し、ある程度の走行に成功した。
[編集] 世界初の蒸気機関車・ペナダレン号
トレビシックは、蒸気自動車の製作の後、1804年に鉄製レール上を走る蒸気機関車・ペナダレン (Penydarren) 号を製作した。鉄道史上初の蒸気機関車とされている。
[編集] ペナダレン号の主な仕様
- 重量 5t
- シリンダーを1つ使用
- 直径約 2.4m (8フィート) の大きなはずみ車を備え、はずみ車から歯車を介して4つ(左右各2つ)の動輪に力を伝達する。
- 1回転で約 2.8m (9.25フィート)動いた。
[編集] 線路の仕様
[編集] 概略
ウェールズの町マーサー・ティドビル(Merthyr Tydfil)では製鉄業が栄え、鉄鉱石や石炭の運搬に鉄道馬車を使用していた。また、製鉄所で製造された鉄製品を運河を使ってカーディフ (Cardiff) まで運搬していた。しかし、運河だけでは製品の輸送が追いつかなかったため、1802年にいくつかの製鉄所が共同して、マーサー・ティドビルから途中のAbercynonまで運河に沿って結ぶ馬車鉄道を作った。
トレビシックは、1803年にマーサー・ティドビルにあるPenydarren製鉄所(1784年に設立)に雇われ、はじめは製鉄所の蒸気機関の製作にたずさわっていたが、馬の代わりに蒸気機関を用いた車をレール上に走らせて運搬に使用できないかと考えた。トレビシックは、これより前の1802年に小型ながらレール上を走る蒸気機関車Coalbrookdale号を試作しており、実現の見通しを得ていた。Penydarren製鉄所の所有者であるSamuel Homfrayは、トレビシックの提案する蒸気機関車を用いることにした。ペナダレン号の名前は製鉄所に由来する。
1804年2月21日に、マーサー・ティドビルからAbercanonまで約14.5km(約9マイル)の距離を、鉄10tと70人の乗客を乗せた5両の車両を牽引して走行することに成功した。速度は時速約 8km(約5マイル)ほどだったようだ。出発後、間もなくペナダレン号の煙突が低い橋にぶつかって破損し、その場で修理した、という記述も見られる。所要時間は約4時間5分だった。
蒸気機関車の走行には成功したものの、前途は多難だった。初の走行の際にもいくつかのトラブルに見舞われたが、一番の問題はレールだった。当時のレールは馬車鉄道用に作られており、もろい鋳鉄製レールを用いていた。そのため、機関車の重量に耐えられず、ほどなくして破損した。また、蒸気機関車にも、回転にムラがある、動力伝達用の歯車が破損する、大きな音を出す、などの問題を抱えていた。このため、蒸気機関車による運搬は3度ほどで中止され、馬車の牽引に戻された。
このように、レールと蒸気機関車を用いた本格的な鉄道の実用化までには至らなかった。まだ、レールも蒸気機関車も開発途上にあり、いましばらくの改良が必要だった。
[編集] エピソード
- 当時、滑らかなレールに鉄の動輪を用いて自力で走行しようとしても動輪が滑ってしまうため、実用にならないという認識があったようだ。トレビシックの蒸気機関車はこの常識を覆した、と指摘する記述も見られる。
- レールと車輪のみで走行する方法を粘着走行と言う。粘着による走行はトレビシックの成功以降も疑問視されていた。このため、トレビシックの成功以降もしばらくは、レールは車両の案内に使われ、別に設けられた歯車を走行に用いる蒸気機関車が見られる。トレビシックの機関車から9年後の1813年にイギリスのウィリアム・ヘドレーが再び粘着走行による蒸気機関車「パッフィング・ビリー」号を製作し、ようやくその知見が再認識された(「パッフィング・ビリー」号は現存する最古の蒸気機関車である)。その後粘着走行を一般化させたのはジョージ・スティーブンソンで有るとする説が有力である。
- 彼の孫2人は明治の日本にお雇い外国人として招かれ、鉄道技術の指導に当たった。その一人であるリチャード・フランシス・トレビシックは、初の日本国産蒸気機関車となった国鉄860形蒸気機関車の製作を指導している。
[編集] その後
1808年にトレビシックは新たな機関車を製作する。「キャッチ・ミー・フー・キャン」号と名付けられたこの機関車は、ペナダレンで走ったそれとは異なり、動力伝達は歯車ではなくロッドであった。トレビシックはこの機関車をロンドンで円形に敷いたレールの上を走らせ、見せ物として金を取った。ただし、名前(翻訳すると「捕まえてごらん」となる)に反して速度は時速8キロほどで、走れば楽に追いつけるほどであったという。
この試みも実用化には至らず、トレビシックは蒸気機関車開発から身を引いてしまう。その後南アメリカに渡り新たな事業を試みるものの失敗し、財産をほとんど失ってイギリスに帰国した。このとき偶然にも彼の帰国を手助けしたのが、ロバート・スチーブンソン(ジョージ・スチーブンソンの息子)であったという。イギリスに帰国後も生活は変わらず、不遇のうちに没した。