リッチー・ブラックモア
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リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore, 1945年4月14日 - )は、イギリス出身のギタリスト。ディープ・パープル、レインボーの元メンバー。
彼の生み出した「スモーク・オン・ザ・ウォーター」の明快なリフや「ハイウェイスター」の速弾きソロは非常に有名であり、ハードロック・ヘヴィメタルのジャンルにおいてはギター速弾きの元祖とされる。
J.S.Bachのフーガ等のクラシック曲をギターフレーズに取り入れ、ロングヘアー、黒い上下の衣装、ストラトキャスター、ステージの最後のギター破壊(ただし破壊用ギターと演奏用は別)などのスタイルを確立した。
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[編集] 略歴
本名リチャード・ハロルド・ブラックモア。イングランド西部の保養地、ウェストン・スーパー・メアで生まれる。
11歳の誕生日に父親から当時の価格で7ポンドのアコースティック・ギターをプレゼントして貰い、その後クラシック・ギターのレッスンを約1年の間受ける。14歳の時、初めてのエレキ・ギター、ホフナー・クラブ=50を手にした彼は、人前で初めての演奏を披露した。エレキ・ギターの魅力に取り憑かれた彼は、当時近所に住んでいたギタリスト、ビッグ・ジム・サリヴァンの師事を受け、着実に自らのギターの腕前を向上させていく。
1960年、初めての本格的なエレキ・ギター、ギブソン=ES335を手に入れる。学校を卒業した彼はロンドンのヒースロー空港で技師として働き始めるが、音楽への情熱を捨てきれずジャズギターの練習やバンド活動にいそしんでいた。
最初にザ・ドミネィションズというバンドに加入した後、ザ・アウトローズやスクリーミング・ロード・サッチなどのバンドを渡り歩き、売れっ子プロデューサーのジョー・ミークの下で多くのセッション活動をこなし、その名を伸ばしていく。なお、ジェフ・ベックやジミー・ペイジとセッションを行ったのもこの頃である。 その後、国内での活動に見切りをつけた彼は、ドイツのハンブルグに渡り、最初の妻バブス・ハーディーとの間に初子ユルゲン・ブラックモアを設けている。
1967年、当時フラワー・ポットメンのメンバーであったキーボーディスト、ジョン・ロード及びクリス・カーティス(ヴォーカリスト)に誘われてイギリスに戻り、ボビー・クラーク(ドラマー)、デイヴ・カーティス(ベーシスト)を加えて、ラウンドアバウトを結成。若干のメンバー・チェンジを経た後の1968年、バンド名をディープ・パープルに改め、アメリカの新興レコード会社のテトラグマンよりデビューを飾る。
オリジナル第一期~第三期及び再結成第五期~第七期を支える。ジミ・ヘンドリックスに強い影響を受けた彼は、使用するギターをギブソン=ES335からフェンダー・ストラトキャスターに変え、アンプも小型のヴォックスAC-30から大型のマーシャル (200W) へと衣替えした。ジャズ等に影響された長時間の即興を初めとする独創的な演奏スタイルもさることながら、コンサート終盤近くになるとギターを振り回し宙に放り投げて破壊する狂気のステージ・アクションは観る者の目を奪った。1975年6月に音楽性の違いなどからディープ・パープルを脱退。
その後、1975年にレインボー(当初はRitchie Blackmore's Rainbow)を結成。ロニー・ジェイムス・ディオをボーカルに迎えて、当初はディープ・パープルの路線を踏襲しつつも、ポップさと中世的な音楽を取り入れてリッチー自身のやりたい音楽を目指していた。その後、ドラマーとしてコージー・パウエルを迎え入れ、第1期の黄金時代を迎える。
ロニー脱退後、スマートなボーカリストグラハム・ボネットを迎え入れ、商業ロック路線を取り入れてスマッシュヒットを連発するが、それまでのファンからは賛否両論をうける。特に、当時としてはハードロック/ヘヴィメタル・ボーカリストに似つかわしくない、短髪・レイバンのサングラス・スーツ姿で歌うグラハム・ボネットには、リッチー自身も不満を感じていた。また、同時期にパープル黄金期(第2期)を共に支えたベーシストロジャー・グローヴァーもプロデューサー兼ベーシストとしてグループに加入することとなる。
その後、ポップ路線に不満を感じたコージー・パウエルが脱退し、本来親友のコージーに誘われて加入したグラハム・ボネットも脱退。新たなボーカリストジョー・リン・ターナーが加わることになる。ここではポップ・センスと欧州的な透明感にあふれた佳曲を多く生み出すとともに、クラシックとの融合にも再度トライするなど、ギタリストとして成熟の域に達するが、強くなって行く商業ロック路線に初期のロニー時代のファンは離れていくものもいた。1984年に活動を休止。ディープ・パープルの再結成に参加。しかしイアン・ギランとの確執などから1993年に再度脱退。そのため、翌年の来日公演の時はジョー・サトリアーニが代役を務めた。(脱退時に来日公演を行うために必要なビザを破り棄てたとも言われている)
1995年にはリッチーブラックモアズレインボー名義のアルバム「STRANGER IN US ALL」をリリースしているが、メンバーも全盛期の70年代とは異なっており、音楽的にも当時とは大きく異なるが、1993年にリリースされたD.Pのアルバム「紫の聖戦」が、あまりに酷かった事もあって批判的な意見はそれほど無かった。実質的にこのアルバムはリッチーブラックモアのソロ・プロジェクトのようなもので、その後リッチーブラックモアズレインボー名義のアルバムはリリースされていない。
現在は婚約者兼ボーカルのキャンディス・ナイトと共にブラックモアズ・ナイトというプロジェクトで数枚のアルバムを発表し、ライブも行っている。彼のルーツの一つである、リュートなどを主体とした中世音楽を現代風にアレンジした、吟遊詩人的な音楽であり、非常に独創的なもので、かつ聴きやすい。また偶然とは言え、もともとアメリカのテレビレポーターで音楽とは何の関係もなかったキャンディスの、曲世界に絶妙にマッチしたリリカルなヴォーカルを見出すあたりは、ミュージシャンとしての目や大胆さもまだまだ衰えていないと思わせるところである。演奏はアコースティック・ギターがメインである。
[編集] 人物
リッチーは非常に悪戯好きな人物として知られている。過去の悪戯には嫌いなマネージャーのパスポートの写真をE.T.にすり代えたり、レインボー時代にはプロモーターと揉めた挙句、プロモーターの社長をステージ上に男根丸出しの全裸で吊るし上げたり、メンバーの衣装にヘアクリームを入れたりと軽い悪戯だけでなく度を越えた悪戯をする、ある意味永遠の悪ガキ少年でもある。度を越える悪戯の中にはゴミ袋に自らの糞を入れ、こっそりと各メンバーの楽屋に置いていくと言うとんでもない行為をしたこともあった。
[編集] 参考文献
- 三木千寿 『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』 シンコー・ミュージック、1977年。
- リッチー・ブラックモア研究会編『リッチー・ブラックモア ディープ・パープル編 / レインボー編』 シンコー・ミュージック、1993年。
- 天才ギタリストシリーズ『リッチー・ブラックモア』 シンコー・ミュージック 1998年