リディツェ
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統計 | |
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面積 | 4.74 km² |
人口 | 435 (2006) |
リディツェ (チェコ語 :Lidice、ドイツ語 : Liditz)は チェコスロバキア(現在チェコ共和国)の小さな村である。日本語では、読みの表記のゆれによりリヂツェ、リジツェ、リディチェとも記述される。この村は、第二次世界大戦中に ナチスにより完全に破壊された。老若男女をあわせ約340人の人々が殺害された。
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[編集] 歴史
この村の記述が最初に表れるのは、1318年である。この地域の工業化の後には、住民の多数が近くの クラドノ(Kladno)や スラニー(Slaný)等の町の工場や鉱山に働きに出ている。
[編集] リディツェの虐殺
1942年、ラインハルト・ハイドリヒは1939年にドイツにより占領されたベーメン・メーレン保護領の総督となった。1942年5月27日 の朝、彼は郊外の自宅から、プラハにある仕事場に車で出発した。プラハのホレショヴィセ(Holešovice)の地域に到着した時、彼は2人のチェコスロバキアのレデスタンスの闘士ヨゼフ・ガブチック、ヤン・クビシュに襲撃された(エンスラポイド作戦)。
この2人は大英帝国で訓練を受け、1941年12月、作戦を実行するため、チェコスロバキアにパラシュートで降下していた。襲撃の結果1942年6月4日、ハイドリヒはプラハのブロフカ病院において、感染症で死亡した。ヒトラーは立腹し、ハイドリヒの後任の クルト・ダリューゲにハイドリヒの殺害者を見つけるため「血の報復」を指示した。ドイツは、チェコの市民達に対して、大量殺戮を始めた。
これらの蛮行の中でよく知られたものは6月10日に発生した。ドイツの秘密警察がリディツェの村を包囲し、全ての逃走路を封止した。ナチスは報復にこの村を選択した。この村が占領に対する反抗的行為で知られており、リディツェはレジスタンスのパルチザンの拠点として疑われていたためであった。 全住民は一箇所に集められ、15歳より上の男性は納屋に放り込まれた。そして、彼らは翌日に射殺された。鉱山で働いていた19人の男性と7人の女性はプラハに送られ、そこで銃殺にされた。残った女性は、ランヴェンスブルク絶滅収容所に送られ、そこで、四分の一がチフスと過労により死亡した。子供たちは、ウッチ(Łódź, 現在のポーランドに存在)のグナイゼナウ通り(Gneisenaustreet)にある強制収容所に送られた。そこで、彼らは人種的に分類され、アーリア化に適していると判断された者はドイツに送られた(戦後、発見され返還された)。残りの子供達(82人)はヘウムノ(Chełmno)の強制収容所に送られたと考えられている[要出典]。村自体は破壊され、平地にされた。この様子は、ドイツの兵士により作成された映像記録で残っている。
約340人のリディツェの人々ほとんどがナチスの報復で殺害された(男性192人、女性60人、子供がおそらく88人)今日では、多数の子供たちが虐殺を生き残ったのではないかと言う手がかりべ存在している。チェコ政府は2005年に、ヘウムノにおいて死亡したと思われる子供の一人、1941年生まれのマルタ・フロニコヴァ(Marta Hroníkova)が生きていることを発表した。この追跡はドイツ人のジャーナリスト、ケルスティン・シヒャ(Kerstin Schicha)とドイツの弁護士フランク・メッツィング(Frank Metzing)により行われた。 レジャーキ(Ležáky)と呼ばれるチェコの小さな村は、リディツェの2週間後に同様に破壊された。ここでは、成人男性と女性は射殺され、子供たちは強制収容所に送られ「アーリア化」の試みに使用された。ナチスの、エンスラポイド作戦への報復による死亡者の総数は、約1300人に上った。この合計にはパルチザンに関連した人間、その支援者や、チェコ知識階級の人々も含む。彼らは、リディツェの人々のように協力的でないとランダムに判断された人々であった。
ナチスがヨーロッパでの占領地域での他の虐殺が秘密にしたのとは異なり、リディツェでの事件は誇らしげに宣伝、プロパガンダに利用された。この情報は、連合国のメディアに取り上げられ、リディツェを題材にしたハンフリー・ジェニングスが監督したThe Silent Villageは、チェコの外交官アヴィグドル・ダガンが制作を主導し、事件のすぐ後1943年にイギリスで公開された。
[編集] 現在のリディツェ
リディツェの村は完全に破壊されたが戦後、1949年に再建された。村が破壊された後、ヒトラーに反攻するため、様々な国の町がリディツェの名前を付けた。その例として、メキシコシティの サン・デェロニモ・リディツェ(San Jerónimo-Lídice)や、ベネズエラの カラカスにあるリディツェ町とそこにある病院、パナマのリディツェ・デ・カピラや他にブラジルの町がある。
イリノイ州のクレストヒルの近傍には、シュテルン・パークからリディツェに名前を変更した。リディツェはいくつかの国における女性の名前にも影響を与えた。第二次世界大戦中に破壊された、イギリスの都市コベントリーの広場は、その後リディツェの名前を付けられた。
現在、新しい村は旧の村に隣接する場所に再建されており、その地域の他の村と区別するため、大きな追悼碑がある以外は、近隣の村とよく似た村となっている。
同じくナチスにより破壊されたレジャーキの村は再建されていない。
[編集] 関連項目
- 連帯責任 (en:Collective punishment)
- 報復 (en:Reprisal)
- バルネット・シュトロス (Sir en:Barnett Stross)
[編集] 外部リンク
- 村の歴史
- リディツェの記憶
- 村の公式記録 (チェコ語)
- 失われた子供達の最近の調査 (チェコ語)
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