ラインハルト・ハイドリヒ
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ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(Reinhard Tristan Eugen Heydrich, 1904年3月7日 ハレ - 1942年6月7日 プラハ)は、チェコ・ボヘミア地方に隣接するドイツ・ザクセン州ハレ出身の親衛隊大将。
[編集] 人物・来歴
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊 No.2の実力者で、ユダヤ人問題の最終的解決計画の実質的な推進者であった。諜報機関である親衛隊情報部( SD ) のトップとして親衛隊内でも恐れられ、風貌から金髪の野獣もしくは第三帝国の首切り役人と呼ばれた。
金髪碧眼、長身の美形で、乗馬・陸上競技・水泳・フェンシングが得意であった。特にフェンシングでは1928年のアムステルダム五輪代表選手に選ばれている。父親が音楽教師であることからか巧みなヴァイオリン奏者でもあった。
ハイドリヒが、15歳で民族主義的な政治団体に入り、反ユダヤ主義的思想に影響されたことは確かである。1922年、おりしも第一次世界大戦後の恐慌がドイツを襲う中、経済的な事情から進学を断念し、18歳でドイツ海軍へ入隊。順調に昇進を続ける。1926年には少尉、1928年には中尉に任官している。ロシア語も堪能であったという。
周囲から将来を嘱望されていたが、海軍中佐待遇の軍属 (Marineoberbaurat) の娘との交際のもつれから軍法会議にかけられ、海軍を不名誉除隊する。軍属はエーリヒ・レーダー(Erich Raeder)提督の姻戚であったという。これ故に、彼は親衛隊高官に昇進後も海軍総司令官のレーダーとは不仲であったと言われる。海軍除隊後、SSに入り、ハインリヒ・ヒムラーの厚い信任の下に出世の階段を駆け上がる。1939年にはナチ党の情報機関 SD と国家機関のSipo(秘密警察と刑事警察の両者を指す)を統合し、国家保安本部を立ち上げ、トップに収まる。
上官ヒムラーの命令には忠実なハイドリヒだったが、陰ではヒムラーを間抜けと評し、個人的な忠誠心など持っていなかった。ヒムラーもまた、ハイドリヒの能力と増大する権力を内心恐れつつ、ハイドリヒに頼らざるを得ないという複雑な主従関係であった。また総統であるヒトラーに対しても、他のナチ党高官と異なり、決して心酔していたわけではなかった。ユダヤ人に対する激しい憎悪を示すエピソードには事欠かないハイドリヒだが、イデオロギーには無関心というより、反発心すら抱く事もあり、彼を動かしていたのはもっぱら権力欲であったとされる。
1941年には37歳の若さで親衛隊大将に昇進。同年、ベーメン・メーレン保護領副総督に任ぜられる。この人事をめぐっては、ナチ党内部の権力闘争に基づく左遷と見る向きもある。経緯はどうあれ、ここでも卓抜した行政官としてアメとムチを巧みに使い分けるハイドリヒの他民族支配は成功を収め、支配地域は次第に安定化の方向に向かうことと成る。
こうした状況に危機感を抱いたイギリス首相ウィンストン・チャーチルは密かにハイドリヒの暗殺(エンスラポイド作戦)を計画。1942年5月27日早朝、イギリスの支援を受けた愛国的チェコ人で組織された暗殺部隊は、プラハ市内をオープンカーで出勤途上のハイドリヒを殺害する。ハイドリヒの死をひどく嘆いたヒトラーは、盛大な葬儀の席で彼を鋼鉄の心臓を持った男と称えている。
ハイドリヒ暗殺に対する報復として、アドルフ・ヒトラーの命令によりプラハ近郊のリディツェ村(Lidece)とレジャーキ村は存在自身を親衛隊によって完全に抹殺される。他にも数千人のチェコ人が強制収容所へ収監された。
比較的年齢層の若いナチ党指導部の中でも最若年といっていい若さながら、冷酷な性格と突出した才能でみるみる出世を遂げたハイドリヒは大変な自信家であったとされる。野心家でもあった性格や年齢的な面から、生存していればヒトラーの有力な後継者候補となっていた事は間違いない。 夫人との夫婦仲は良く、彼女は生涯ハイドリヒを擁護し続けた。
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