エンスラポイド作戦
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エンスラポイド作戦( Operation Anthropoid)は、第二次世界大戦におけるチェコスロバキアとイギリスの間で計画されたナチスの指揮官ラインハルト・ハイドリヒの暗殺作戦のコードネームである。日本語訳では、類人猿作戦と呼ぶ場合もある。ハイドリッヒは、国家保安本部の長官であり、ユダヤ人や他の人種の虐殺に対する「最終的解決」(ナチスはユダヤ人や少数民族の絶滅政策のことを婉曲的に「最終的解決」と称していた)を行うナチスの主要計画遂行者であった。
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[編集] 背景
1939年から、ハイドリヒはゲシュタポ(秘密警察)、親衛隊保安部(Sicherheitsdienst(SD), 秘密機関)と犯罪警察を統括する組織である国家保安本部の長官であった。彼は、アドルフ・ヒトラー首相に反抗する人間を取り除く役目を担っており、後のユダヤ人の虐殺における主要な計画遂行者であった。彼は、独裁者ヒトラーの助言者兼友人として、ヒトラーの陰謀のほとんどに参加し、重要な政治的な関係を築いていた。
彼の能力と権力により、彼は全てのナチスの将軍から恐れられていた。1941年9月、ハイドリッヒは、コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵の代わりとして、ボヘミアとモラヴィアの副総督に任命された。ノイラートの統治はヒトラーからも生ぬるいと考えられており、ハイドリッヒの統治ではそれと反対に徹底的な弾圧をおこなった。ボヘミアとモラヴィアの「事実上の」独裁者としての彼の統治の間、ハイドリッヒは、時々、オープンルーフの車にお抱えの運転手を乗せ出かけることがあった。これは、占領を行っている戦力と、一部の集団への抑圧策の効果への信頼を示すものであった。彼の残忍性によって、ハイドリッヒは、「プラハの虐殺者」、「金髪の獣」、「絞首刑人」の通り名で呼ばれていた。
[編集] 戦略的意味
1941年が終わるまでに、ヒトラーはヨーロッパのほぼ全土を支配していた。このころドイツ軍はソビエト連邦の首都モスクワに迫っており、連合国はソビエト連邦の降伏は近いと考えていた。エドヴァルド・ベネシュ大統領率いるチェコスロバキアの亡命政府は、1939年から始まったドイツ占領以来、チェコで目に見える抵抗がほとんどなかったことに対し、イギリス情報部からの圧力をうけていた。
当時、チェコでは第三帝国にとって重要な軍事物資を生産していた。亡命政府は、チェコの人々に希望を与え、チェコが連合国側であることを示す何かを行う必要があると感じていた。イギリスのスパイ部隊である特別作戦部隊(Special Operations Executive, SOE)は隊員を訓練し、作戦の計画を立案する支援を行った(cf:MRD Foot SOE and others) 。ヒトラーの後継者と考えられていたラインハルト・ハイドリッヒは、ナチスドイツにおける最重要の人物であった。よって彼の死は大きな損失であり、たとえ戦略的な影響はないとしても、心理的な面での大勝利となるだろうと見込まれていた。
[編集] 作戦
[編集] 計画
イギリスのチェコスロバキア亡命軍からの7人の兵士である、ヨゼフ・ガブチック、ヤン・クビシュと2つの他のグループ(シルバーAとシルバーB)は、イギリス空軍により1941年12月28日にチェコスロバキアにパラシュートで降下した。これは、最初のSOEの作戦ではなく、何度か以前から行われていた。計画ではビルゼン近くで降下する予定であったが、航空機の航法に問題があったため、ガブチックとクビシュはプラハの東に降下した。兵士たちは協力者と接触するためビルゼンへ移動し、計画した攻撃を行うため、そこからプラハへ移動した。
プラハでは、彼らは暗殺の準備期間、いくつかの家族や反ナチ組織と接触した。ガブチックとクビシュは列車内でのハイドリッヒの暗殺を計画していたが、調査の結果これが不可能であることに気がついた。第2の計画は、ハイドリッヒが住居からプラハへ移動中に、森の道路で暗殺するというものであった。道を横切るケーブルを張り、ハイドリッヒの車を止めるという計画であった。しかし、何時間か待った後、レジスタンスの戦闘員オパースカがやってきてそれを撤去しプラハに戻っていった。第3の計画がたてられ、プラハでハイドリッヒを暗殺することになった。
[編集] 暗殺
1942年5月27日、ハイドリッヒは、パネンスケー・ブリェージャニィ(Panenské Břežany)にある自宅からプラハ城までのいつもの通勤経路を通っていた。
彼は、いつもは付いているはずの警察の護衛を、このときは、急ぎのため付けていなかった。ガブチックとクビシュはブロフカ病院の近くのトラムの停留所でハイドリッヒを待っていた。アルチークは、車が接近してくるのを確認するために、ガブチックとクビシュの北約100mの位置にいた。ハイドリッヒのオープントップのメルセデスベンツが二人に近づいてきた。ガブチックは車の正面に飛び出て、射撃をしようとしたが、彼の軽機関銃はジャミングを起こし、射撃ができなかった[要出典]。ハイドリッヒは運転手のSS軍曹クラインに車を止めるように命令した。ハイドリッヒはガブチックを射殺しようと立ち上がった。その時、クビシュは改造した対戦車手榴弾を車両に投げ込んだ。手榴弾は車の中に投げこまれなかったものの、その破片は車の右側のフェンダーを破壊し、ハイドリッヒの体に車体からの破片や繊維が突き刺さった。ハイドリッヒは反撃しようとしたがすぐに倒れ落ちた。クラインはガブチェックが追いかけて殺害した。ハイドリッヒはその怪我で死亡した。
[編集] 陰謀説
ハイドリッヒの上司のハインリッヒ・ヒムラーは、自分自身で彼の安否を確認しようとした。チェコや軍医には、ハイドリッヒを治療する許可が出なかった。その代わり、ヒムラーは彼の個人的な医者を診察のために現地へ送った。6月4日、ハイドリッヒは死亡した。その死因は、ヒムラーが送った医者によって「敗血症」と診断された。医者たちは、ハイドリッヒの車に使用していた馬の毛が手榴弾の爆発で彼の体に入り、自分たちの薬では治療できない全身の感染を引き起こしていると報告した。噂では、ハイドリッヒは、ヒムラーが恐れ用心していた人物の1人で、この診断の妥当性は一部の人間の間で憶測を生んでいた。
他の噂では、イギリスの開発した生物兵器の手榴弾に仕込んであったボツリヌス菌の神経毒により死亡したというものもある。
[編集] 結果
[編集] 報復
ヒトラーはSSとゲシュタポに、ボヘミア中で、ハイドリッヒを殺した人間を探し、「血の報復」を命令した。最初は、ヒトラーは残忍にも広範囲のチェコの人々を殺そうとした。しかし、協議の結果、彼はその責任を数千人に限定した。チェコの土地は、ドイツの軍事にとって重要な工業地域となっており、見境の無い殺害は、その地域の生産性を減らすからである。結果、1万3千人の人々が殺害された。有名な事件が、リディツェ(Lidice)とレジャーキ(Ležáky)の村の完全な破壊である。
イギリスの戦時首相であるウィンストン・チャーチルはこれに激怒して、ナチスが破壊したチェコの村ひとつにつきドイツの三つの村を破壊することを提案した。その代わり、連合国は報復が怖くナチスの高官を暗殺する同様の作戦計画を中止した。ハイドリッヒが殺された2年後、フォックスレイ作戦で連合国側はヒトラーを目標とした作戦を試みるが、失敗した。エンスラポイド作戦はナチスの高官の暗殺で唯一成功した例として残っている。
[編集] 暗殺者の逮捕
暗殺の実行者は、二つのプラハの家族にかくまわれ、後にプラハの正教会に隠れた。その教会は、聖シリルとメソディウスに捧げられたものであった。ゲシュタポは、(サボタージュを目標としたグループから「引き離して」)カルル・ガブチックが100万帝国マルクの報奨金でチームのその地の接触先を密告されるまで暗殺者たちを発見できなかった。
チューダは、ジズコフ(Zizkov)のモラヴェック家の家族を含む、インドラ(Jindra)のグループに提供されたセーフハウスを密告した。6月17日午前5時、モラヴェック家の住まいが手入れを受けた。家族はゲシュタポがアパートを捜索中に廊下に立たされ、モラヴェック夫人は、驚いたことにトイレに行く許可を受け、その間に青酸カプセルで自殺をしてしまった。夫は家族のレジスタンスへの関係を知らなかったが、息子のアタと共にペケック・パラク(Pecek Palac)に連れて行かれた。ここでアタは一日中拷問にあった。最終的に彼は、ブランデーで酔わされ、水槽に母親の切断された首を見せられた。最終的に、不幸なアタ・モラヴィックはゲシュタポに彼が知っていることを全て話してしまった。SSは教会を包囲し、700人以上のナチスの部隊が作戦を行ったにもかかわらず、ナチスは降下兵を生きたまま捕らえることができなかった。ハイドリッヒを殺したクビッシュを含めた3人は銃撃戦の後、礼拝堂で殺害された。ガブチックを含んだ4人は、捕虜になるのを避けるため地下室で自殺を行った。カルル・ガブチックは自殺に失敗して、1947年に反逆罪で処刑された。
[編集] 政治的影響と余波
作戦の成功は、大英帝国とフランスにミュンヘン会談の内容を破棄させた。これは、ナチスを敗北させた後、ズデーテンラントはチェコスロバキアに戻されるということに同意したことを意味する。チェコスロバキアのドイツ人を追い出すという考えへの同意となった。
ハイドリッヒはナチスの重要人物の1人であったため、二つの大きな葬儀の式典が行われた。ひとつはプラハで、数千人のSSがトーチを持ってプラハ城まで並んだ。二つ目はベルリンでナチスによって催され、ヒトラーも参列し、枕元にドイツ勲章(German Order)と血の勲章(blood order)のメダルを置いた。
この作戦の話は、1943年の映画死刑執行人もまた死す(Hangmen Also Die)、1964年の映画Attentatと1975年の映画暁の7人(Operation Daybreak)の元となった。 ロックグループBritish Sea Powerの歌、"A Lovely Day Tomorrow"の下敷きとなった。
元々B面の歌は、チェコのバンドThe Ecstasy of St. Theresaにより、2004年限定版として英語とチェコ語(Zítra bude krásný den)で再録音された。
[編集] 伝説
チェコの伝説には、真のチェコの王でないものがチェコの王冠を頭に抱いた際に、そのものは1年と1日後に死亡するというものがある。彼の死の前にハイドリッヒは、王冠を頭に抱いていた。一部のものは、彼の暗殺がその日から1年と1日後に生じたと言っている。
[編集] 関連項目
- ヨゼフ・ガブチック
- ヤン・クビシュ
- ラインハルト・ハイドリッヒ
- 死刑執行人もまた死す
- 暁の7人
[編集] 参考文献
- The Killing of Reinhard Heydrich: The SS "Butcher of Prague", by Callum McDonald. ISBN 0-306-80860-9
- Assassination : Operation Anthropoid 1941-1942, by Michael Burian. Prague: Avis, 2002. ISBN 80-7278-158-8
- Valka.cz - a complete Operation Anthropoid overview (in Czech language)