ルソン島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルソン島の戦いは、1945年1月6日から終戦までフィリピン・ルソン島で行われた、日本軍(第14方面軍:司令官 山下奉文大将)とアメリカ軍の陸上戦闘のことを言う。日本軍に機甲師団が配属されていたため、太平洋戦線では珍しく多くの戦車戦が発生した。
目次 |
[編集] 戦闘直前
大本営の方針の転換から起きたレイテ島の戦いのためルソン島から大量の兵力を抽出したことにより、ルソン島の戦力は大きく低下し、持久作戦をとらざるを得なくなっていた。それに加え、当時第14方面軍の作戦参謀を務めていた堀栄三中佐らの「艦砲射撃を多用する米軍相手に水際での戦闘を挑むよりは、艦砲の砲弾が届かない山岳に誘い出しての持久戦を行うほうが望ましい」との進言から、司令官の山下大将は「持久戦により敵をルソン島に可能な限り引き付ける」方針を決断、1月3日に司令部をイポからバギオへと移した。
[編集] 戦闘経過
米軍は1月4日からマニラ~リンガエン湾間を対象とする爆撃を開始。1月6日からは艦砲射撃による海岸陣地への攻撃を行い、1月9日朝からリンガエン湾への上陸を開始した。 米軍がフィリピンの首都マニラに突入したのは2月3日のことである。日本軍のマニラ防衛部隊との激しい市街戦の末、3月3日に奪還した。 このマニラ市街戦で9万人以上のマニラ市民が犠牲になり、市街地中心部は廃墟になった。 第14方面軍は元々、マニラを戦場にしないという方針であったが、海軍が頑強に市街戦にこだわったのと、大本営がこれを認めなかったため起こった悲劇であった。
[編集] 抗日ゲリラの跳梁
[編集] 両軍の損害
戦死 日本軍 尚武集団9万7000人 振武集団9万2000人 健武集団2万8000人
アメリカ軍 第6軍8297人
[編集] 参考文献
- 大本営参謀の情報戦記 - 情報なき国家の悲劇(堀栄三著、文春文庫)
[編集] 関連項目
カテゴリ: 戦争スタブ | 太平洋戦争の作戦と戦い