一条信龍
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一条 信龍(いちじょう のぶたつ、天文8年(1539年)? - 天正10年(1582年))は戦国時代の武将。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 天文8年(1539年)? | |||
死没 | 天正10年(1582年)3月 | |||
別名 | 上野介、右衛門大夫(通称)、 信隆、信竜(別名) |
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氏族 | 武田氏→一条氏 | |||
父母 | 父:武田信虎 | |||
兄弟 | 兄:武田信玄、信繁、信基、信廉、 |
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子 | 一条信就(上野介) |
甲斐武田氏18代武田信虎の八男。武田信玄の異母弟。騎馬200騎持ち(100騎とも)。
甲斐源氏の名家一条家の名跡を継ぐ。甲斐国市川郷上野城主。一門衆として兄・信玄、甥の武田勝頼の2代に仕え、本願寺等畿内勢力との外交を担当した。勝頼の後見人との説もある。合戦では主に本陣後衛を担当していた為か武名は伝わっていないが、7人の武将に次いで武名があるとの記述もある。駿河侵攻では田中城代を務めた。天正3年(1575年)の長篠の戦いに参戦し生還する。しかし、天正10年(1582年)の甲州崩れ時に、駿河方面より侵攻してきた徳川家康の軍と戦って子の信就と共に討死にした。また信長公記によると、天正10年(1582年)3月7日に正遥軒(武田逍遥軒)と共に織田信忠に誅されたとあるが、これは武田信基(上野介信友)ではないかとする説もある。
資料や記録に乏しい人物であるが、甲陽軍鑑では山県昌景のセリフとして「一条殿は、馬鞍武具等、これほど忙しくともいつも新しく、しかも諸国の良い浪人を集めている。」と言う評が伝わっている。また「伊達者にして花麗を好む性質なり」との評も伝わる。