一柳頼寿
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一柳 頼寿(ひとつやなぎ よりかず、享保18年5月26日(1733年7月7日) - 天明4年12月13日(1785年1月23日))は、伊予小松藩の第5代藩主。父は第4代藩主・一柳頼邦(頼寿は三男)。母は玉林院。正室はなし。側室に堅性院など多数いる。子に頼忠、頼欽、寿重。官位は従五位下、山城守、美濃守、上総介、但馬守。
享保18年(1733年)5月26日生まれ。幼名は主膳。初名は頼長、頼澄、後に頼寿。三男だったが、長兄と次兄の早世により世子となり、延享元年(1744年)の父の死去により後を継いだ。寛延元年(1748年)12月に叙任する。明和3年(1766年)5月、駿府加番となる。安永8年(1779年)8月7日、次男の一柳頼欽に家督を譲って隠居し、天明4年(1784年)12月13日に江戸で死去した。享年52。法号:恒一軒殿天遊英心大居士。墓所:愛媛県西条市の仏心寺山。
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