一柳頼邦
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一柳 頼邦(ひとつやなぎ よりくに、元禄8年12月8日(1696年1月12日) - 延享元年7月8日(1744年8月15日))は、伊予小松藩の第4代藩主。父は第2代藩主・一柳直治の次男・一柳治良(頼邦は長男)。母は門川氏。官位は従五位下、兵部少輔。
元禄8年(1695年)12月8日、小松で生まれる。初名は治達。正徳4年(1714年)9月、伯父で先代藩主の一柳頼徳の養嗣子となる。享保9年(1724年)、頼徳の死去により後を継ぎ、同年12月に叙任する。しかし享保の大飢饉において領内で5万4000人もの餓死者を出すなどの大被害を被り、その救済に追われた。延享元年(1744年)7月8日、江戸で死去し、後を三男の一柳頼寿が継いだ。法号:甘節軒殿。墓所:愛媛県西条市の仏心寺山。
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