一進会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一進会(イルチンフェ・いっしんかい)とは、1904年から1910年まで大韓帝国で活動した政治結社。
権力抗争に明け暮れる宮廷勢力に幻滅し、次第に外国勢力の力を借りてでも韓国の近代化を成し遂げようとする方向に傾いていきつつあった一部開化派の人々が設立した団体。中でも日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった日本に注目し、日本と韓国の対等な連邦である韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)の実現のために活発に活動した。
当時、大韓帝国では最も大きな政治結社であり、会員数は1908年12月時点で公称80万人から100万人であった[1]。(実際は10万~30万と推定されるが判然としない[要出典]。)
目次 |
[編集] 背景
朝鮮では、日清戦争で日本が清に勝利すると、王妃である閔妃が朝鮮で一層強化する日本の支配力を警戒した。三国干渉によってロシアの東アジアへの影響力が強まったことで日本への牽制を含めて親露政策を強めるようになる。その後、乙未事変で日本軍民に王宮が襲撃され閔妃が暗殺されたことで日本に対する警戒と反発がさらに強まった。1896年2月11日、親露派の李範晋や李完用らによってクーデターが行われ国王の高宗がロシア公使館に移り執務(露館播遷)を行うようになった。日本の後押しを受けていた開化派政権は崩壊し、ロシアの影響力が強まった。1896年7月、開化派の流れをくむ人たちが朝鮮の自主独立、法治主義の確立、新教育の振興、農業の改良、工業の育成、愛国心、君主への忠誠心の培養を訴え李完用らが独立協会を設立。1897年以降ロシアの侵略政策が露骨になると独立協会は反露闘争を展開、国王の高宗に王宮に戻ることを要請した。高宗は王宮に戻り、大韓帝国の独立を宣言した。これによりロシアの勢力は朝鮮から後退した。しかし独立協会の主張は次第に守旧派官僚との対立を招き、最終的に高宗の勅令により独立協会は解散させられた。
ロシアの勢力が朝鮮から後退したことによって再び日本の勢力が増大し韓国の経済的支配を進めた。ロシアと日本は朝鮮や満州の利権をめぐって対立を深めた。こうした背景のもと、日露戦争中に日本軍通訳をつとめた宋秉畯が政治改革のための組織を計画し、元独立協会系の人々に受け入れられる。宋秉畯は、日露戦争のさなか、日韓議定書が強引に締結された約半年後の1904年8月8日に独立協会系の尹始炳らと共に、一進会を設立する。(当初、名称は「維新会」。8月20日に「一進会」に改名。)その後、もともと東学に参加していた宋秉畯は、東学の一部を引き継いだ進歩会を率いていた李容九と意見が合い、進歩会を吸収した。ちなみに同年8月22日には第一次日韓協約が締結されている。
当初、尹始炳が会長であったが、尹始炳の要請によって李容九が会長に就任した。
[編集] 目的
一進会の掲げた目的は、独立協会に見られる民主主義、独立国家主義の思想を継承しており、「政治改革と民主の自由」を掲げている[2]。 また一進会は、日露戦争時に設立され、日韓軍事同盟においてロシアを侵攻を阻止することが、ロシアの大韓帝国に対する影響力を弱め、さらには欧米列強のアジア進出を防ぎ、朝鮮の復興になると考えていた。
[編集] 活動
一進会の設立当初、日本は一進会をそれほど評価してはいなかった[2]が、一進会の設立後、宋秉畯は当時の日本の大佐、松石安治に対し書簡を送り、現状の高宗およびその官僚主導では大韓帝国の独立・維持は困難であると説明し、また京義線敷設の協力をも申し出ている[3]。当時の日露戦争においては、日本軍が物資輸送のため京義線の敷設を計画するが、日本軍の人員不足で計画が暗礁に乗り上げており、この際、一進会がこの敷設工事に無償支援し、会員14万人以上を動員した。さらに一進会は、日本軍の軍事物資輸送も支援に乗り出し、10万人以上の会員が自費で日本軍の武器、食料を戦地まで運んでいる。また、この日露戦争当時、一進会会員は、当時の伝統であった辮髪をやめ、自主独立運動の象徴としている。朝鮮では露館播遷で断髪令を廃止しており、このような断髪は一般市民からは考えられないものであった。
1905年10月、日本政府は韓国保護権の確立の方針を閣議決定し、翌11月には伊藤博文を特使として派遣し、11月28日に第二次日韓協約の締結が強行された。これに先立ち、一進会は1905年11月5日に「外交権を日本政府に委任し日本の指導保護を受け、朝鮮の独立、安定を維持せよ」という宣言書を発表している。[4]
日韓併合を反対していた伊藤博文もやがて韓国併合を容認するようになる。1909年10月、伊藤博文が安重根によって暗殺されると、韓国併合賛成派の寺内正毅が第三代韓国統監となり、同年7月に閣議決定されていた日韓併合が加速した。
一進会は、1909年12月「韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)」を純宗、曾禰荒助韓国統監、首相李完用に送り、韓日合邦を要請している。 この建議書の中で、李容九は会員100万人の声明と称して、「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、我々も一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」と主張し韓国と日本の連邦形式の対等合邦を求めた[5]。
一進会の主張はあくまで日韓両国民の対等な地位に基づく日韓共栄であって日本の考える韓国の吸収併合とは全く異なるものであることや、日韓併合については韓国側の要求は一切受け入れない方針であったため日本政府は一進会の請願を無視した。日韓併合後、親日派/非親日派の政治団体の対立による治安の混乱を収拾するため、全ての政治団体を解散させた。この解散は一進会も同様であり、一進会は併合直後の1910年9月12日に日本政府によって解散を命じられ、同年9月25日に解散した。その後、宋秉畯には伯爵位が与えられている。その後の一進会参加者の中には自らの対等合邦の主張が受け入れられず、結果的に祖国を日本に吸収させる一翼を担ってしまったことから後悔の気持ちと共に日本に騙されたとの印象を持つものも少なくなかった。
[編集] 評価
一進会に対する評価はその活動の解釈や政治的立場によって大きく異なる。以下には日韓において出版されている一般書籍での評価について概述する。(順不同)
- 平凡社の『朝鮮を知る事典』では、一進会を「親日御用団体」と呼び、表立った運動以外にスパイ活動などにも協力したとしている。また、親日団体としての働きについてはプラスの効果よりも民衆の反発を招いたマイナスの結果の部分が大きかったとしている。また、一進会の実態が「李容九や宋秉畯などの利権集団」であったとも記述している。
- 三省堂の『朝鮮の歴史 新版』では、一進会が1909年に出した声明について、民衆の声を代表しておらず、かつ「会員100万人」も実体のない数字だったとしている。
- (以下、追記募集)
[編集] 関連先
[編集] 参考文献
- ^ アジア歴史資料センター、レファレンスコードB03041514200
- ^ a b アジア歴史資料センター、レファレンスコードB03050325500
- ^ アジア歴史資料センター、レファレンスコードB03050325700
- ^ 『朝鮮最近史』
- ^ 統監府文書 8、警秘第4106号の1
[編集] 外部リンク
- 日韓併合を歓迎して、一進会が立てた奉迎の門
- アジア歴史資料センター
- The National Institute of Korean History
- http://ameblo.jp/dreamtale/(参考サイト)
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 朝鮮の歴史 | 日本の国際関係史