三善康信
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三善 康信(みよし・の・やすのぶ(※註)、保延6年(1140年)- 承久3年8月9日(1221年8月27日))は、鎌倉幕府の初代問注所執事。入道の後は善信(ぜんしん)という法名を名乗る。元々は公家で算道の家柄の出身。 父は三善康光、または康久とされる。母は比企掃部允女。
源頼朝の乳母の比企尼が母の姉であった関係で伊豆国に流された頼朝に、京都情勢や朝廷、平氏の動向を報告した。
1184年(元暦元年)に頼朝に呼ばれ、大江広元と共に下向、政務を担当した。
1191年(建久2年)からは、初代問注所執事として裁判事務の責任者となった。
頼朝死後、2代将軍源頼家の独裁ぶりに不安を抱いた御家人の代表による十三人の合議制にも参加。
1221年(承久3年)の承久の乱に際しては病身の身で会議に参加、大江広元の即時出兵論を支持した。同年、承久の乱後に没した。
※註:三善氏は源氏や大江氏などと同じく氏姓の氏なので、名前との間に「の」を入れて読むのが正しいが、後世には苗字化したと見做されて「の」を省き、「みよし・やすのぶ」と読むこともある。