源頼朝
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 | |||
生誕 | 久安3年4月8日(1147年5月9日) | |||
死没 | 正治元年1月13日(1199年2月9日) | |||
別名 | 三郎、佐殿、武衛、鎌倉殿、源二位 右大将軍、右幕下 |
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神号 | 白旗大明神 | |||
戒名 | 武皇嘯厚大禅門 | |||
墓所 | 鎌倉市大盛山巨腹 | |||
官位 | 従五位下右兵衛佐、正四位下 従二位、正二位、権大納言 右近衛大将、征夷大将軍 |
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幕府 | 鎌倉幕府征夷大将軍 (在任1192年 - 1199年) |
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氏族 | 清和源氏義朝流(河内源氏) | |||
父母 | 義朝、藤原季範三女の由良御前 | |||
兄弟 | 義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼 全成、義円、義経 |
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妻 | 八重姫、北条政子、亀の前、大進局 | |||
子 | 千鶴丸、源頼家、源実朝、大姫、乙姫、貞暁 |
源 頼朝(みなもとの よりとも、久安3年4月8日(1147年5月9日) - 正治元年1月13日(1199年2月9日)は、鎌倉幕府の初代将軍である。
平安時代末期に河内源氏嫡流の源義朝の三男として生まれ、平治の乱で父が平清盛に敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平家打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を本拠とする。源義仲と平家を弟らによって破ると、戦いに活躍した源義経を追放し、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は鎌倉幕府と呼ばれ、幕府による武家政権は、明治維新までの約680年間に渡り、存続することとなる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 出生
久安3年4月8日(1147年)に源義朝の 三男として生まれる。幼名は鬼武者。母は熱田神宮大宮司藤原季範の三女の由良御前であり、そのため出生地は京もしくは尾張と考えられている。
父の義朝は清和天皇を祖とし、河内国を本拠地とした源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の棟梁である。義朝は保元元年(1156年)の保元の乱で、平清盛と共に後白河天皇に従って勝利しており、頼朝はその御曹司として官職を歴任し、平治元年(1159年)には上西門院蔵人に補された。
[編集] 平治の乱
平治元年(1159年)12月3日、保元の乱後の賞罰を不満としていた義朝は、後白河上皇の近臣である藤原信頼に誘われ、平治の乱を起こした。上皇と二条天皇を奉じた義朝らは自らの除目を行い、十三歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられる。しかし天皇は内裏から六波羅の平清盛邸へと逃れ、27日、官軍となった平家が大内裏へと攻め寄せる。頼朝は奮戦する長兄の源義平に続き、源義家以来河内源氏の嫡男に伝えられる太刀と鎧を用いて戦うが、源家は平家に敗れ、一門は官職を止められ京を落ちた。
義朝に従う頼朝ら八騎は、本拠の東国を目指し近江国へと至るが、頼朝は野路で戦いの疲れから馬上で眠り、一行からはぐれ落人狩りに遭う。一度はこれを切り抜け野州で一行と合流するが、積雪のため一行が馬を下り歩き始めると再びはぐれ、一月中は浅井に身を潜める。その間に一行は、義朝の妻子が住む美濃国青墓へ至るが、ここで傷を負った次兄の源朝長を亡くし、父の義朝は尾張国野間で長田忠致の裏切りにより討たれる。それを知った長兄の源義平は、清盛らを一人でも討とうと京に戻り、かつての郎党と共に変装して清盛暗殺の機会を狙うが、捕えられ六条河原で首を斬られた。
頼朝は雪が消えると浅井を発ち、青墓を経て尾張へと至るが捕えられた。永暦元年(1160年)2月9日、京の六波羅へと送られた頼朝は、出家し亡くなった父祖兄弟を弔いたいと望む。清盛の継母である池禅尼は、頼朝が早世した我が子平家盛に似ている事から清盛に助命を請い、許された頼朝は3月に伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)へと流された。
[編集] 伊豆の流人
仁安2年(1167年)頃、頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されている。しかし祐親が在京の間にその四女と通じて子千鶴丸を成すと、祐親は激怒しさらに平家との関係を慮り千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に沈め四女を江間小四郎(小次郎とも)の妻とし頼朝を討たんと企てた。祐親の次男からそれを聞いた頼朝は北条時政の下へと逃れ、後にその長女である二十一歳の政子と通じた。時政は平兼隆に対し政子を嫁がせると約していた為に思案し、政子を兼隆の下に送るが、政子はその夜の内に抜け出し、頼朝の妻となった。祐親の四女は伊豆での伝承によると八重姫と呼ばれ、病死したとも言われるが、頼朝を訪ねた際に政子の為に会えず、悲嘆し韮山の真珠ヶ淵に身を投げたとも伝わる。一部では千鶴丸は生きていて、甲斐源氏逸見氏に預けられ、島津忠久となり九州の大名島津氏の祖となったとされているが傍証はない。
池禅尼による助命嘆願から流刑地で北条時政の監視と保護を受けるに至ったことについて、時政の後妻である牧の方の父宗親が池禅尼の弟藤原宗親と同一人物であり、清盛と不仲であった平頼盛(池禅尼の子)が頼朝の身柄を保持し続けたとする学説もある。
[編集] 挙兵
治承4年(1180年)、以仁王が平家追討を命ずる令旨を諸国に雌伏する源氏に発し、4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父の源行家より令旨が届けられる。しかし以仁王は源頼政らと共に宇治で平家に討たれ、平家は令旨を受けた諸国の源氏を討とうと企てた。頼朝は関東に住む源家累代の家人の動向を安達盛長に探らせ、京より下った三浦義澄、千葉胤頼らの報告を受け、平兼隆を討つ事を決意する。
挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えていた工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉を一人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝える。皆に自身のみが抜群の信頼を得ていると思わせ奮起させたのである。挙兵の前日、参着を命じていた佐々木盛綱ら兄弟が参じず、頼朝は兄弟に計画を漏らした事を頻りに後悔する。しかし当日の8月17日昼、急ぎ疲れた兄弟が参着すると、頼朝は感涙を浮かべてねぎらい、深夜に佐々木定綱、経高、盛綱、高綱、加藤景廉を従え平兼隆を討ち、平家打倒の兵を挙げた。
伊豆を得た頼朝は相模国土肥郷へ向かう。従った者は北条義時、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであり、さらに三浦義澄、和田義盛らは頼朝に参じるべく三浦を発した。しかし合流前の23日に石橋山の戦いで、平家に仕える大庭景親、渋谷重国、熊谷直実、伊東祐親ら三千余騎と戦い、三百騎を率いる頼朝は敗れ、土肥実平ら僅かな従者と共に山へ隠れる。平家方は頼朝を捜し梶原景時は居所を知るが、景時は「ここに人跡は無い」と大庭景親に述べ他の峰に誘った。この間に頼朝は三歳より奉っていた観音像を岩窟に隠し、実平に対し「首を景親らに伝う日、この本尊を見て源氏の大将に非ざる由、必ず誹りを招く」と述べた。死を逃れた頼朝は、8月28日に真鶴岬から船で安房国へと向かう。
[編集] 関東平定
治承4年(1180年)8月29日、安房国へ上陸した頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に参上を命じ、北条時政を甲斐源氏の武田信義に加勢させるべく送る。千葉常胤の加勢を得ると、9月13日、平家に従う上総国目代を滅ぼし、17日には広常の参入を待たず三百余騎で下総国府に入り、常胤から源頼隆を引き合わされる。頼隆は平治の乱で共に戦い討たれた源義隆の遺児であり、頼朝は自身と似たその境遇に感じ、常胤の上座に座らせ家人とした。19日、上総広常が二万騎を率いて参じると、本来は喜ぶべき所を逆に広常の遅参を咎め、恭順させる。10月初め、武蔵国に入ると葛西清重、足立遠元に加え、一度は頼朝らを滅ぼそうとした畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも従える。10月6日、かつて父義朝と兄義平の住んだ鎌倉へ入る。鎌倉では、先祖の源頼義が京都郊外の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を北の山麓に移すなど整備を続け、鎌倉は後の鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げる事となる。
10月16日、頼朝追討の宣旨を受けた平維盛率いる数万騎が駿河国へと達すると、これを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川で武田信義、北条時政らが率いる二万騎と合流する。20日、富士川の戦いで維盛軍と対峙し、水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛軍を破る。翌日には上洛を志すが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らは常陸源氏の佐竹氏が未だ従わず、まず東国を平定すべきと諌め、これを容れる。この日、奥州の藤原秀衡を頼っていた異母弟の源義経が参じる。頼朝は幼い頃に見た弟との対面に涙を流し、義経を後三年の役で源義家に駆けつけた源義光になぞらえ、これまでの身の上を語り合い、共に平家を滅ぼし父の仇を討つ事を誓う。
相模国府に戻り初めての勲功の賞を行い、捕えた大庭景親を誅すると、佐竹秀義を討つべく鎌倉を発し、11月4日に常陸国府へと至る。戦いは上総広常の活躍により秀義を逃亡させ終わった。頼朝は秀義の所領を勲功の賞に充て、鎌倉へ戻ると和田義盛を侍所の別当に補す。侍所は後の鎌倉幕府で軍事と警察を担う事となる。
養和元年(1181年)、肥後国の菊池高直、尾張国の源行家らも平家打倒の兵を挙げ、そうした中の閏2月4日、平清盛が熱病で世を去った。その遺言は「我の死後は堂塔も孝養も要らぬ、ただ頼朝の首を跳ね我が墓前に供えよ」と伝わり、清盛五男の平重衡は頼朝を討つべく京を発した。頼朝はこれを防ぐべく甲斐源氏の安田義定らを遠江国浜松庄へ送るが、重衡は行家との墨俣川の戦いを経て京に戻った。
7月頃、後白河法皇に「全く謀叛の心無し。昔のごとく源平を共に召し仕うべきなり」との書状を送るが、清盛の遺命を受けた平家が頼朝を許す筈は無く、奥州の藤原秀衡に頼朝追討の由宣が下され、京からも再び追討軍が発される。しかし、この頃の追討軍は越後国で反乱を行う源義仲に向った。一時の安寧を得たのであろうか、寿永元年(1182年)の頼朝は、伊勢神宮に平家打倒の願文を奉じ、藤原秀衡の調伏を祈願し江ノ島に弁才天を勧請する。また政子に嫡男の源頼家を孕ませ、安産祈願の為に、鶴岡八幡宮の参道を、御家人らと共に自ら手で築く。また政子の妊娠中に亀の前と密通し、それを知った政子に亀の前の住む家を破却されている。
寿永2年(1183年)2月、常陸に住む叔父の源義広が20日に鎌倉を攻めるべく兵を挙げた。この頃、主な御家人らは平家の襲来に備え駿河国に在ったため、対応に苦慮した頼朝はそれを小山朝政らに託し、自らは鶴岡八幡宮で東西の戦いの静謐を祈る。朝政らは野木宮合戦で義広らを破り、逃げる義広の兵を頼朝の異母弟である源範頼らが討った。頼朝は義広とそれに与した武士の所領を自らの御家人に与える。これにより関東で頼朝に敵対する勢力は無くなった。
[編集] 義仲との戦い
寿永2年(1183年)春、相模国松田に住んでいた源行家より所領を望まれ、頼朝が断ると行家は越後の義仲に従うべく信濃国へと走った。頼朝は武田信光の讒言を受け義仲を討つべく鎌倉を発する。義仲は越後国関山で二千余騎を率い待ち構え、頼朝は十万余騎を率いて信濃国佐樟川へ陣を取った。義仲は劣勢を悟ると越後国府へと戻り、頼朝に忠誠を誓う書状を送る。頼朝は天野遠景と岡崎義実を使者として返し、行家か義仲の長子義高を差し出すように求める。義仲はこの時11歳の長男である源義高を差し出すと、頼朝は義高を鎌倉に住まわせ、幼い娘の大姫の婿とした。
頼朝と和した義仲は、行家と共に平家との戦いに勝利を続け、7月に平家を西国に追い京に入ると、後白河法皇に召され平宗盛ら平家一門追討の命を得る。しかし義仲とその兵は、平家を越えるとも評される悪行を働く。朝廷と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平家追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。しかし10月7日、頼朝は使者を返し要請を断る。その理由として、一つは藤原秀衡と佐竹隆義に鎌倉を攻められる恐れ、二つは数万騎を率い入洛すれば京がもたないとしている。同日に朝廷は平治の乱で止めた頼朝の位階を復した。14日には平家の東海道と東山道の所領を元の本所に戻すとの宣旨が下され、頼朝は従わぬ者の沙汰を命じられる。
閏10月15日、頼朝の上洛を恐れる義仲は、平家追討の戦いに敗れると京に戻り、頼朝追討の命を望むが許されず、11月には頼朝が送った源義経率いる軍が近江国へと至る。平家と義経に挟まれた義仲は、院を攻め後白河法皇を拘束すると、頼朝追討の宣旨を引き出し、寿永3年(1184年)1月には征夷大将軍に任ぜられる。しかし20日に源範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、防ぐ義仲は近江国粟津で討たれた。
頼朝は婿として鎌倉に在った義高の殺害を企て、これを大姫が義高に伝えると、4月21日に義高は女房に扮し鎌倉を逃れた。頼朝は怒って追手を発し、24日に武蔵国入間川原で義高を討つ。大姫は嘆き悲しみ、憤った母の政子は義高を討った家人を梟首するが、大姫はその後も憔悴を深め、後にわずか二十歳で亡くなる事となる。
[編集] 平家追討
義仲を討った源範頼と源義経は、平家を追討すべく京を発し、元暦元年(1184年)2月7日、摂津国一ノ谷の戦いで勝利し、平重衡を捕え京に連れ帰った。頼朝は四国に逃れた平家を更に追討すべく、九州・四国の武士に平家追討を求める書状を下す。
頼朝は後白河法皇の下に在った重衡との面会を望み、下洛させ伊豆国で会う。重衡は「早く斬罪に処せらるべし」と述べ、感じ入った頼朝は重衡を鎌倉に招きもてなした。また平治の乱で命を救われた池禅尼の息子で、官位と荘園を奪われていた平頼盛の旧領を戻させ、鎌倉に下った頼盛をもてなし、頼盛、義経、鎌倉に戻った範頼、源広綱、源義信らの官位を朝廷から得る。8月6日、京に在った義経は頼朝の内挙を得ずに任官し、憤った頼朝は義経を平家追討軍から除く。8日、範頼を大将とする平家追討軍が鎌倉を発する。従わせた家人は北条義時、足利義兼、千葉常胤、三浦義澄、小山朝光、比企能員、和田義盛、天野遠景らである。頼朝は範頼に対し京への駐留を禁じており、追討軍は27日に京へ入ると29日に平氏追討使の官符を賜い、9月1日には西海へと赴いた。
10月6日、公文所を開き大江広元を別当に任じる。公文所は後に政所と名を改め、後の鎌倉幕府における政務と財政を司る事となる。20日には訴訟を司る問注所を開き、三善康信を執事とする。この時期になると二階堂行政、平盛時などといった才能を発揮する場を求めて鎌倉に下向する中下級の有能な官人達が増加し、彼らが幕府初期官僚組織を形成する。
文治元年(1185年)1月6日、西海の範頼から兵糧と船の不足を訴える書状が届く。頼朝は、軍を動かさず筑紫の武士からくれぐれも反感を得ぬ様に記した書状を返し、九州の武士には、範頼に従い平家を討つ事を求める。10日、追討軍から除かれていた義経は、讃岐国屋島に拠る平家を追討すべく四国へと向かう。26日、九州の武士から兵糧と船を得た範頼は、周防国から豊後国へと渡る。2月19日、義経は屋島の戦いで平家を海上へと追い、3月24日、壇ノ浦の戦いで安徳天皇らを入水させ、平宗盛、建礼門院らを捕え、遂に平家を滅ぼした。
4月27日に平宗盛を捕らえた功により、従二位へ昇った。
[編集] 義経追放
文治元年(1185年)4月、平家追討で侍所所司として義経の補佐を勤めた梶原景時から、「義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が届く。4月15日、頼朝は内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り東国への帰還を禁じるが、同じく任官を受けた義経には咎めを与えなかった(ただし、義経が奥州に入った事実が確認された後、対象の武士達に対して厳重注意の上で帰還を許していることから、義経への牽制の意図も含まれているのは明白である)。5月に入り義経は平宗盛父子を伴ない相模国に凱旋する。しかし頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れる。腰越に留まる義経は、許しを請う腰越状を送るが、頼朝は宗盛との面会を終えると、義経を鎌倉に入れぬまま、6月9日に宗盛父子と平重衡を伴なわせ帰洛を命じる。義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と述べた。これを聞いた頼朝は、義経の所領を全て没収する。
義経が近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を自身が焼き討ちにした東大寺へ送ると、8月4日、頼朝はかつて源義仲に属した叔父源行家の追討を佐々木定綱に命じた。9月に入り京の義経の様子を探るべく梶原景季を遣わすと、義経は痩せ衰えた体で景季の前に現れ、行家追討の要請を受けると、自身の病と行家が同じ源氏である事を理由に断った。10月、鎌倉に戻った景季からの報告を受けた頼朝は、義経と行家が通じていると断じ、義経を誅するべく家人の土佐坊昌俊を京に送る。対して義経は、頼朝追討の勅許を後白河法皇に求めた。
10月17日、頼朝の命を受けた土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲ったが、応戦する義経に行家が加勢し、襲撃は敗北に終わる。義経は土佐坊が頼朝の命で送られたことを確かめ、頼朝追討の宣旨を再び朝廷に求め、後白河法皇はその圧力に負け義経に宣旨を下した。これを聞いた頼朝は、かねてから準備していた父義朝の供養のみを沙汰し、24日に多くの御家人を集め盛大に法要が催される。一方の義経の下に追討の兵は集まらず、29日に頼朝は行家と義経を討つべく自ら鎌倉を発し、11月1日に駿河国黄瀬川に達すると、義経は戦わずして京を落ちた。
11月11日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下される。12日、大江広元は処置を考える頼朝に対し「東海道は御居所ゆえに静謐であるが、乱れは地方に起こる。これを鎮めんが為に毎度東士を発すると、人は煩い国は費える。諸国の国衙と庄園毎に守護と地頭を補せられば、恐れる所有るべからず。」と述べた。これに賛同した頼朝は、朝廷を責めて義経に組した貴族を蟄居させ、さらに義経らの追捕の為として守護地頭の設置を求める。この要求は入洛した北条時政による交渉の末に認められた。文治の勅許と呼ばれる。
文治2年(1186年)、頼朝の下に義経の妾である静御前が届けられる。4月8日、鶴岡八幡宮で静に舞を求めると、静は義経を追慕する歌を詠んだ。頼朝は憤るが妻の政子は、頼朝との伊豆での馴初めから石橋山の戦いまで、自身が頼朝を想い案じた心を静になぞられ、頼朝の怒りを宥めた。5月12日には和泉国に潜んでいた行家を討つ。閏7月29日に静が義経との間になした男の子を産むと、頼朝は子の殺害を命じる。命を受けた家人が静の下を訪れると、静は子を抱き臥して叫喚し、政子は頼朝を宥めるが叶わず、子は由比ヶ浜へと棄てられた。
義経を追放した頼朝は、諸国から争いの訴えをなどを多く受ける様になり、また平重衡に焼かれた東大寺の再建なども手がける。そうした中も義経の捜索を続けるが、捕らえる事は叶わず、義経は奥州に逃れ藤原秀衡の庇護を受ける事となった。なお、頼朝は義経を庇護する寺社勢力の力を削ぐ為、あえて捕縛せずに潜伏地を遅れて追跡したのだ、とする説もある。
[編集] 奥州合戦
文治3年(1187年)10月、藤原秀衡が子の泰衡らに義経を将軍とする様に遺言して没する。翌年4月に頼朝は義経追討の宣旨を院に求め、泰衡に義経を召し進せよとの宣旨が下される。屈した泰衡は文治5年(1188年)閏4月、衣川の館に住む義経を襲い、自害へと追いやった。
6月13日に義経の首が鎌倉に届けられると、頼朝は和田義盛と梶原景時に実検させる。25日に泰衡追討の宣旨を朝廷に求め、御家人を鎌倉に集めるが、勅許は下されなかった。頼朝は大庭景義を呼び、「今に勅許無し。なまじいに御家人を召し集む。これをして如何」と問うと、景義は「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」と答えた。頼朝はしきりに喜び、景義に褒美を与える。
7月19日、ついに勅許を待たず、およそ一千騎を率いて鎌倉を発して泰衡追討に向かい、奥州合戦が始まる。鎌倉進発時に率いた御家人は、源義信、源義定、源範頼、源広綱、足利義兼、北条時政、北条義時、新田義兼、小山朝政、小山朝光、三浦義澄、和田義盛、安達盛長、土肥実平、岡崎義実、梶原景時、梶原景季、葛西清重、江戸重長、佐々木盛綱、佐々木義清らで、25日には宇都宮で佐竹秀義らを軍に加えた。
8月7日、陸奥国伊達郡国見へ至り、藤原国衡と対峙する。国衡は阿津賀志山に城壁を築き、阿武隈川の水を引き入れた堀を設け、二万の兵を率いていた。夜に入り頼朝は明朝の攻撃を命じ、まず予め用意していた鋤鍬で掘を埋めさせる。8日、畠山重忠、小山朝光、加藤景廉、工藤行光らに、阿津賀志山の前に陣する数千騎を攻めさせ破る。9日夜には明朝の阿津賀志山越えを命じ、先陣は国衡が拠る大木戸へと至る。10日、本軍が大木戸を攻め、搦手の山に登った朝光らの奇襲により国衡らを破り、逃げる国衡を和田義盛が討った。阿津賀志山の戦いと呼ばれる。
船迫宿から多賀城に進んだ翌日の14日、玉造郡に泰衡在りとの報を受けると小山朝政、朝光らを向かわせ、泰衡の陣を囲むが泰衡は既に逃亡しており、朝政らは陣に残った残党を討つ。頼朝の先陣は続いて多加波々城を囲むが、泰衡はまたも逃亡しており、城に残った敵兵は手を束ねて投降した。20日、頼朝は先陣に「平泉に入るに於いては、僅か一二千騎を率い馳せ向かうべからず。二万騎の軍兵を相調え競い至るべし。すでに敗績の敵なり。侍一人といえども無害の様、用意を致すべし。」と命ずる。21日、平泉へ向かうと、泰衡の郎従は栗原に要害を築き防がんとするが、頼朝らはこれも破り、平泉に入るべく津久毛橋に至ると、梶原景高は「陸奥のせいはみかたにつくも橋、わたしてかけん泰衡が首」と歌を詠み、頼朝を喜ばせた。
22日、平泉の泰衡の館に着くが、泰衡は館を焼き逃亡していた。頼朝は朝廷に戦況を報ずる使者を発し、泰衡の捜索を行う。26日、泰衡は書状を頼朝に届け、状中で助命を乞い返報を比内郡に捨て置く様に望む。書状を受けた頼朝は比内郡での泰衡捜索を命じ、9月2日には岩井郡厨河へと陣を移す。厨河はかつて前九年の役で源頼義が安倍貞任らを討った地であり、頼朝はその佳例に倣い、厨河での泰衡討伐を望んだのである。3日、泰衡はその郎従である安田次郎の裏切りにより討たれた。6日、安田次郎が泰衡の首を持ち、陣岡に戻っていた頼朝の下へ参じる。頼朝は実検を行うと、安田次郎を主人を討った不義による斬罪を命じ、泰衡の首はかつて源頼義が安倍貞任の首を釘で打ち付けさせた例に倣わせた。
7日、泰衡の郎従である由利八郎が捕らえられる。その勇敢な態度から頼朝は八郎と会い尋ねる。「泰衡は奥州に威勢を振るっており、刑を加えるのは難儀に思っていたが、尋常の郎従が無き故に、河田次郎一人に誅された。両国を治め十七万騎を率いながら、二十日程で一族皆滅びた。言うに足らざる事なり。」八郎は「故左馬頭殿は、海道十五箇国を治められたが、平治の乱で一日も支えられず零落し、数万騎の主であったが、長田忠致に誅せられ給った。今と昔で違いは如何か。泰衡は僅か両国の勇士を率い、数十日も頼朝殿を悩ませた。愚かと思い給うべからず。」と答えた。頼朝は答えを返さず対面を終えると、畠山重忠に由利八郎を預け、芳情の施しを命じた。
9日、奥州を征した頼朝に泰衡征伐の宣旨がようやく届いた。
厨河に戻った頼朝は、奥州藤原氏の建立した中尊寺、毛越寺、宇治平等院を模した無量光院などの寺領の安堵を命じる。平泉へ戻ると諸寺を参拝し、中でも中尊寺境内の大長寿院は、頼朝に鎌倉で模した寺を建立させた。24日、葛西清重に平泉の治安維持を命じると共に、伊達郡、磐井郡、牡鹿郡などを与える。27日、かつて安倍頼時の住んだ衣川の旧跡を訪れ、28日に平泉を発ち、10月24日に鎌倉へ帰着した。
[編集] 征夷大将軍
文治5年(1189年)11月3日、朝廷より奥州征伐を称える書状が下り、頼朝は按察使への任官を打診され、さらに勲功の有った御家人の推挙を促されるが、頼朝はこれらを辞する。建久元年(1190年)10月3日、頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発し、平治の乱で父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国青墓などを経て、11月7日に千余騎の御家人を率いて入洛し、かつて平清盛が住んだ六波羅の跡に建てた新邸に入った。
9日、後白河法皇に閲し、大納言への任官を求められるが、頼朝は辞退し、後鳥羽天皇への拝謁を終えると六波羅に戻る。しかし六波羅に、「今に於いては異儀有るべからず」と記した権大納言任官の院宣が届き、再び辞退の書を返すが、容れられずに叙目は行われた。さらに22日には武官の最高職である近衛大将への任官も打診され、頼朝はやはり辞退するが、24日に右近衛大将へと任ぜられた。12月3日、両官を辞し、11日に勲功の有った御家人を任官させると、14日に鎌倉へ戻るべく京を発し、29日に鎌倉へと戻った。
建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御し、同年7月12日、前から望んでいた征夷大将軍へと任ぜられた。鎌倉幕府はこれにより開かれたと、一般にはされている。
建久4年(1193年)5月28日、御家人を集め駿河国で巻狩を行っており、その夜に御家人の工藤祐経が曾我兄弟の仇討ちに遭い討たれる。宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わると、源範頼は嘆く北条政子に対し「範頼左て候へば御代は何事か候べきと」と慰めた。鎌倉に戻りそれを聞いた頼朝は、範頼に対し謀反の疑いを抱き、8月2日、範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽した。10日夜、範頼の家人である當麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、小山朝光らに當麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと當麻は「起請文の後に沙汰が無く、頻りに嘆き悲しむ参州の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず。」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝は、17日に範頼を伊豆に流した。この後に誅したとも言われる。
その後は、再建が成った東大寺などの寺社参拝、種々の儀式、笠懸、争いの裁きなどを行う日々が続き、建久5年(1194年)には有力御家人である安田義定を誅している。建久6年(1195年)3月、摂津国の住吉大社において幕府御家人を集めて大規模な流鏑馬を催し、その後上洛し、娘の大姫を後鳥羽天皇の妃にしようと目論んだが、土御門通親や丹後局、親頼朝派の九条兼実も反対する。程なく大姫が望んでいない縁談の心労がもとで衰弱して病死し、計画は失敗する。1197年には、薩摩や大隈などで大田文を作成させ、地方支配の強化を目指している。
建久9年(1198年)12月27日、相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は落馬とされるが定かでは無い。建久10年(1199年)1月11日に出家し、13日に享年53で死去した。
[編集] 年表
- 年月日は出典が用いる暦であり、当時は宣明暦が用いられている
- 西暦は元日を宣明暦に変更している
和暦 | 西暦 | 月日 (宣明暦長暦) |
内容 | 出典 |
---|---|---|---|---|
久安3年 | 1147年 | 4月8日 | 生誕 | ? |
保元3年 | 1158年 | 2月3日 | 皇后宮少進 | 公卿補任 |
平治元年 | 1159年 | 1月29日 | 右近衛将監兼任 | 公卿補任 |
2月13日 | 上西門院蔵人補任。皇后宮少進を止む。 | 公卿補任 | ||
12月9~26日 | 平治の乱 | 平治物語 | ||
12月14日 | 従五位下右兵衛権佐に叙位転任。 | 公卿補任 | ||
12月28日 | 解官 | 公卿補任 | ||
永暦元年 | 1160年 | 3月20日 | 伊豆へ流される | 平治物語 |
不詳 | 不詳 | 不詳 | 伊東祐親三女八重姫との間に千鶴丸を成すが祐親に殺される | 曽我物語 |
治承4年 | 1180年 | 4月27日 | 以仁王令旨を受ける | 吾妻鏡 |
8月17日 | 挙兵、平兼隆を討つ | 吾妻鏡 | ||
8月23日 | 石橋山の戦い | 吾妻鏡 | ||
8月29日 | 安房国へと逃れる | 吾妻鏡 | ||
9月5日 | 叛逆として追討の宣旨を受ける | 玉葉 | ||
9月29日 | 二万七千余騎が従い集まる | 吾妻鏡 | ||
10月7日 | 鎌倉へ入る | 吾妻鏡 | ||
10月20日 | 富士川の戦い | 吾妻鏡 | ||
10月21日 | 弟源義経が参じる | 吾妻鏡 | ||
11月5日 | 常陸国の源氏の佐竹秀義を破る | 吾妻鏡 | ||
11月7日 | 重ねて追討の宣旨を受ける | 吾妻鏡 | ||
11月17日 | 和田義盛を侍所別当に補す | 吾妻鏡 | ||
養和元年 | 1181年 | 閏2月4日 | 平清盛薨去 | 玉葉 |
寿永元年 | 1182年 | 8月12日 | 長男頼家誕生 | 吾妻鏡 |
寿永2年 | 1183年 | 2月23日 | 野木宮合戦で叔父の源義広を破る | 吾妻鏡 |
春 | 源義仲と信濃国で対峙し、義仲長子の源義高を人質とする | 平家物語 | ||
7月28日 | 義仲と源行家が京に入る | 玉葉 | ||
9月 | 義仲追討令を受ける | 玉葉 | ||
10月9日 | 従五位下に復位 | 公卿補任 | ||
10月14日 | 寿永二年十月宣旨 | 百錬抄、玉葉 | ||
元暦元年 | 1184年 | 1月20日 | 宇治川の戦い、義仲を討つ | 吾妻鏡 |
2月7日 | 一ノ谷の戦い | 吾妻鏡 | ||
3月27日 | 正四位下に昇叙 | 吾妻鏡 | ||
4月 | 鎌倉から逃れた源義高を殺す | 吾妻鏡 | ||
10月6日 | 大江広元を別当とし公文所を開く | 吾妻鏡 | ||
10月20日 | 三善康信を執事とし問注所を開く | 吾妻鏡 | ||
文治元年 | 1185年 | 2月19日 | 屋島の戦い | 吾妻鏡 |
3月24日 | 壇ノ浦の戦い、平家滅亡 | 吾妻鏡 | ||
4月15日 | 内挙を得ずに官位を得た関東の御家人を追放する | 吾妻鏡 | ||
4月27日 | 従二位へ昇叙 | 吾妻鏡 | ||
5月15日 | 義経が平宗盛と清宗父子を伴い鎌倉近くに帰参するが、義経は鎌倉外に留める | 吾妻鏡 | ||
5月16日 | 宗盛、清宗と面会 | 吾妻鏡 | ||
6月9日 | 義経を鎌倉に入れぬまま、宗盛と清宗を伴わせ京に戻す | 吾妻鏡 | ||
10月17日 | 六十余騎で京の義経邸を襲う | 吾妻鏡 | ||
10月18日 | 義経と行家に頼朝追討令が下される | 玉葉 | ||
10月25日 | 義経を討つべく軍を発する | 吾妻鏡 | ||
11月3日 | 義経と行家を京より追う | 玉葉 | ||
11月11日 | 義経と行家を捕えよとの院宣が下される | 玉葉 | ||
11月28日 | 文治の勅許 | 吾妻鏡、玉葉 | ||
12月 | 諸国への地頭の設置が認められる | 吾妻鏡 | ||
文治5年 | 1189年 | 1月5日 | 正二位に昇叙 | 公卿補任 |
閏4月30日 | 衣川で義経が藤原泰衡に討たれる | 吾妻鏡 | ||
7月~9月 | 奥州合戦、奥州藤原氏を滅ぼす | 吾妻鏡 | ||
11月7日 | 入洛 | 吾妻鏡 | ||
11月9日 | 権大納言 | 吾妻鏡 | ||
11月24日 | 右近衛大将 | 吾妻鏡 | ||
12月3日 | 両官辞任 | 吾妻鏡 | ||
12月29日 | 鎌倉へ帰着 | 吾妻鏡 | ||
建久3年 | 1192年 | 3月13日 | 後白河法皇崩御 | 玉葉 |
7月12日 | 征夷大将軍 | 公卿補任 | ||
8月9日 | 次男源実朝誕生 | 吾妻鏡 | ||
建久4年 | 1193年 | 5月28日 | 曾我兄弟の仇討ち | 吾妻鏡 |
8月17日 | 弟範頼を伊豆に流す | 吾妻鏡 | ||
建久6年 | 1195年 | 3月12日 | 東大寺供養 | 吾妻鏡 |
建久9年 | 1198年 | 12月27日 | 相模川橋供養 | 承久記等 |
建久10年 | 1199年 | 1月11日 | 出家 | 公卿補任 |
1月13日 | 薨去 | 承久記等 |
[編集] 祭祀
墓所は鎌倉市の大倉山中腹に質素な石層塔が残っている。
死後その亡骸は彼の持仏堂に葬られた。持仏堂は正治2年(1200年)から法華堂と呼ばれ、多くの法要が営まれている。安永8年(1779年)2月には薩摩藩藩主島津重豪が現在の石塔を建てた。明治に入ると廃仏毀釈により石塔の前に在った法華堂は壊され、明治5年(1872年)、その跡に頼朝を祀る白旗神社が建てられた。なお石塔は昭和2年(1927年)に「法華堂跡(源頼朝墓)」として国指定史跡とされている。
鶴岡八幡宮境内にも白旗神社があり、社伝によると北条政子が朝廷より白旗大明神の神号を賜り正治2年(1200年)に創建したされる。源頼家の創建とも伝わる。明治21年(1888年)に現在地に遷座した。明治以降は日光東照宮の相殿にも祀られている。
現在は源頼朝公墓前祭が、毎年4月13日の命日に、鶴岡八幡宮の神職により行われている。また日光東照宮で春と秋に行われる千人武者行列では、頼朝の神輿を担ぐ行列が参道を往復し、兵庫県川西市の多田神社の源氏まつりでは、頼朝に扮した騎馬武者を見られる。
[編集] 容姿
平治物語は「年齢より大人びている」、源平盛衰記は「顔が大きく容貌は美しい」と記している。また吾妻鏡は、頼朝が御家人らの容姿を一人ずつ罵倒した書状を伝えており、頼朝は自身の容姿に自信があった事を伺わせる。身長も大山祇神社に奉納された甲冑を元に推測すると165センチ前後はあったとされ、当時の平均よりは長身である。
肖像は多く伝わっている。京都神護寺蔵の肖像画(神護寺三像)は、頼朝を描いたものとして伝わり、大和絵肖像画の傑作として国宝に指定されている。しかし平成7年(1995年)に米倉迪夫が、その画法や服装から足利直義を写した物とする学説を発表し、像主について議論が続いている(→詳細は神護寺三像を参照のこと)。鶴岡八幡宮に伝わっていた木像は、江戸時代には頼朝像とされ、現在は東京国立博物館が蔵し重要文化財に指定されている。甲斐善光寺蔵の木像は文保3年(1319年)に彫られた像で、確実に頼朝像であると言われる。
[編集] 評価
頼朝の開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に幕府と名付けられ、明治維新まで約680年間に渡り長く続く事となる。その創始者として頼朝の業績は高く評価されており、ほとんどの日本人は義務教育でその名を学んでいる。
その一方で、人格は「冷酷な政治家」と評される場合が多い。それは、多くの同族兄弟を殺し、自ら兵を率いる事が少なく、主に政治的交渉で鎌倉幕府の樹立を成し遂げた事による。判官贔屓で高い人気を持つ弟の義経を死に至らせた事もあり、頼朝の人気は、その業績にも関わらずそれほど高くは無く、小説などに主人公として描かれる事も稀である。
以上は概ね現代における評価であるが、頼朝は過去にも多くの人物により評されてきた。
- 北条政子と御家人
- 頼朝の死後に起きた承久の乱で朝廷と幕府が争うと、北条政子は集まった御家人らに対し次の様に述べた。「故右大将軍(頼朝)が朝敵を滅ぼし関東を開いて以降、官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い。(中略)恩を知り名を惜しむ人は、早く不忠の讒臣を討ち恩に報いるべし。」これを聞いた御家人らはただ涙を流し報恩を誓った。頼朝の幕府内での位置と、御家人からの高い評価を知る事が出来る。
- 保暦間記
- 頼朝の死因を自らが滅ぼした源義広、義経、行家、安徳天皇の亡霊によると記している。当時からその生涯は罪深い物として捉えられていた事を伺わせる。
- 豊臣秀吉
- 武辺咄聞書によると、鶴岡八幡宮白旗神社の頼朝像を参った際に、次の様に述べたと伝わる。「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり。」冗談ながらにも、頼朝の業績は血統に拠る物が有ると評している。
- 徳川家康
- 頼朝の事績を多く記した吾妻鏡を集めて写させた。家康は頼朝を崇拝しており、吾妻鏡を読み頼朝の行動を学んだといわれる。
- 新井白石
- 読史世論の中で、頼朝の行動は朝廷を軽んじ己を利する物であるとし、総じて否定的な評価を行っている。挙兵から四年間も上洛せず、東国の土地を押領し家人に割け与えたのは、既に独立の志を持っていたとする。源義仲を討った理由は、義仲が朝奨に預かった事を憎んだからであり、また義仲が後白河法皇を幽閉した罪を問わなかった事を責めている。源義経との対立に関しては、朝臣に列していた義経を京で襲った事は、臣たる者の仕業では無いとし、襲った理由は、義経が朝賞に預かったと共に、義経の用兵を恐れたからだとする。義経が驕りに加え梶原景時の讒言により誅されたとの論には、驕りも讒言も無く誅された源範頼の例を挙げて反論し、「頼朝がごとき者の弟たる事は、最も難しいと言うべき」と記して評を終えている。
[編集] 研究
[編集] 清盛の遺言
「我の死後は堂塔も孝養も要らぬ、ただ頼朝の首を跳ね我が墓前に供えよ」は平家物語に記された文言であり、物語ゆえにかその真偽を疑う声もある。
この遺言は戦国武士の感覚ならともかく、平安時代末期の武士感覚から考えてありえない遺言であるという説が近年では強く、清盛はむしろ頼朝との和睦と後白河法皇との協調政治を望んだとも言われている。しかし清盛の後を継いだ宗盛が暗愚だったため、宗盛の反対で何ひとつ実現しなかったと言う。
一方で、遺言に従ったのか清盛の墓所ははっきりと伝わっておらず、玉葉の治承5年(1181年)8月1日にも平家物語と似た意の清盛の遺言と共に、それ由に平家が頼朝を許す筈がないと記されている。
[編集] 義経との対立
弟である源義経を追うに至った経緯は、古くから多くの人々の興味を呼び、物語が作られ、研究が成されている。
義経記での頼朝は、義経に対し讒言を行う梶原景時と、擁護する畠山重忠の間で、どちらの言を容れるか揺れ動いている。また源平盛衰記では、未だ東国に在り昇殿も免じられない自身に対し、弟の身で五位に任じられ禁中で華やかに振舞う義経を、過分として嫉妬し暗殺者を募っている。
吾妻鏡では、8月6日、京に在った義経は頼朝の内挙を得ずに任官し、憤った頼朝は義経を平家追討軍から除いたことになっている(元暦元年八月十七日条)。しかし、この記述は同じ吾妻鏡の他の記事と齟齬を見せているとの説もある。8月3日、頼朝は義経に伊勢の平信兼追討を命じ(八月三日条)、義経は12日に出発している。つまり任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、26日、義経は平家追討使の官符を賜っている(文治五年閏四月三十日条)。頼朝は義経に対して何の処罰も下していないのであると言う。一方で、頼朝が義経の無断任官を知ったのは8月17日であるから、それ以前に何らかの命を義経に下しているのは当然であり、平家追討使の官符を賜っているのも、朝廷は頼朝に諮らず義経を検非違使に任じたのであるから、頼朝に諮らず平家追討の官符を下しても、不思議は無いとも考えられる。
義経を恐れたとの説もある。戦いに敗れる事も多かった頼朝に対し、義経は平家追討で連戦連勝を遂げ、これにより頼朝は義経の軍才を恐れるに至ったとする。義経が藤原泰衡に討たれた直後に、奥州合戦を始めた事は、この説を裏付けるものとして用いられる。
[編集] 死因
死因を伝える史料は、相模川橋供養の帰路に病を患った事までは一致しているが、その原因は定まっていない。吾妻鏡は「落馬」、猪隈関白記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記している。これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられており、確定するのはもはや不可能である。死没の年月日については、それ以外の諸書が一致して伝えているため、疑う余地はない。
- 落馬説
- 吾妻鏡に記された死因であり、最も良く知られた説である。しかしその死因が吾妻鏡に登場するのは、頼朝の死から13年も後の事であり、死去した当時の吾妻鏡には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全く無い。これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、これを出版した徳川家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったともいう。また武家の棟梁である頼朝が落馬するとは考えにくいともされ、この説に対する疑いを生んでいる。
- 糖尿病説
- 猪隈関白記の「飲水の病」とは水を欲しがる病であり糖尿病を指すとする。
- 溺死説
- 史料は「飲水の病」「相模川橋供養」「水神の祟り」「海上に現れた安徳天皇」など水を連想させる語が多く、溺れた事が死に繋がったのではと見る。また相模川河口付近は馬入川とも呼ばれており、頼朝の跨った馬が突然暴れて川に入り、落馬に至った事に由来するとも伝わる。溺死説の場合、「飲水の病」は川に落ち溺れ、水を飲み過ぎた事を意味すると見る。
- 亡霊説
- 保暦間記に記されている。当時は亡霊や祟りが深く信じられている時代であり、信心深い頼朝には義経や安徳天皇の亡霊が見えたのであろうと言う。
- 暗殺説
- 頼朝は子の源頼家や実朝と同じく何者かに暗殺されており、その事実を隠すべく吾妻鏡への記載を避けたとする。
- 誤認殺傷説
- 愛人の所に夜這いに行く途中、不審者と間違われ切り殺されたとする。
[編集] 系譜
頼朝は清和源氏の庶流だが、武家源氏の主流だった源頼信を祖とする河内源氏の七代目に当たる。
- 父
- 母
- 由良御前 - 藤原季範三女
- 兄弟
- 妻
- 子
[編集] 家人
頼朝の家人の多くは、関東に住む武士であった。彼らの家は、頼朝の先祖である畿内の河内源氏の源頼信、源頼義や源義家から恩を受けており、頼朝の父である源義朝に従っていた者も多い。頼朝はその縁を生かして彼らを従わせ兵を挙げた。また挙兵後には、平家の天下の下で苦しんでいた同族兄弟が、多く集まり従っている。関東平定後は、京都から公家を鎌倉に招き、政務の助けとした。これら頼朝に仕えた家人は、御家人と呼ばれ、諸国の守護地頭に任じられ、子孫は全国に広がっていった。以下に主な家人を列記する。
[編集] 関連項目
- 史料
- 物語
- 平治物語 鎌倉時代前期に成立、平治の乱を描いた物語
- 平家物語 鎌倉時代前期に成立、平家の栄枯盛衰を描いた物語
- 源平盛衰記 鎌倉時代後期に成立、源平の盛衰を描いた物語
- 曾我物語 南北朝時代以前に成立、曾我兄弟の仇討ちを描いた物語
- 研究書
- 「読史世論」 江戸時代中期の新井白石著、儒教倫理から頼朝の批評を行っている。
- 「頼朝の精神史」 現代、山本幸司著、講談社選書メチエ
- 「頼朝の時代」 現代、河内祥輔著、平凡社
- 「征夷大将軍」 現代、高橋富雄著、中公新書
- 「武家の棟梁の条件」 現代、野口実著、中公新書
- 史跡
- 祭事
- TVドラマ
- 『草燃える』 昭和54年(1979年)のNHK大河ドラマで、石坂浩二が頼朝役を務めた。
- 『武蔵坊弁慶』 昭和61年(1986年)のNHK水曜時代劇で、菅原文太が頼朝役を務めた。
- 『炎立つ』 平成5年(1993年)7月から翌年3月にかけて放送されたNHK大河ドラマで、長塚京三が頼朝役を務めた。
- 『義経』 平成17年(2005年)のNHK大河ドラマで、中井貴一が頼朝役を務めた。
- TVゲーム
- 『源平合戦 コーエーの歴史シミュレーションゲーム。頼朝や平清盛、木曾義仲らを選んで全国を平定する。
- 『蒼き狼と白き牝鹿』シリーズ コーエーの歴史シミュレーションゲーム。頼朝はユーラシア大陸とその周辺に割拠する諸国の一国王として登場。モンゴル帝国や南宋、遠くイスラム諸国や西欧キリスト教世界と戦いながらユーラシア大陸平定を行う。
- 『源平討魔伝』 ナムコのアクションゲームで、頼朝は最後の敵として登場する。
- 『義経英雄伝』及び『義経英雄伝 修羅』 フロム・ソフトウェアのアクションゲームで、史実と異なる外伝の最後の敵として登場する。「修羅」においては、プレイヤーキャラとして使用できる。
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