三浦重成
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三浦 重成(みうら しげなり、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての徳川氏家臣。後に俗に「下総三浦藩」と称される藩の初代藩主となった。佐原義成の子。初名は「佐原作十郎(さはら さくじゅうろう)」、後に「三浦 義次」、更に「重成」と改名した。
初め、徳川家康の小姓であったが、家康の関東移封後に下総印旛郡・上総山辺郡に計1万石が与えられた。文禄4年(1595年)に豊臣秀吉によって従五位下監物に任じられて併せて豊臣の姓を与えられた。関ヶ原の合戦後、近江国浅井郡に3千石を加増される。
だが、男子に恵まれなかったために外孫の阿部重次を養子に迎え、大坂夏の陣には病気の重成に代わって重次が出陣する。だが、後に実子重勝が生まれたために重次に近江の所領を分与して別家を立てさせる。後に重次は実家の岩槻藩の後継に立てられたために阿部家に戻り、後に老中に昇っている。
寛永4年(1627年)、大網城城下にあった方墳寺を破却したとされているが、その後の記録は不詳である。ただし、その4年後の寛永8年(1631年)に嫡男三浦重勝が病没して無嗣断絶したとされているため、それ以前に重成が没して重勝に代替わりをしたものと考えられる。だが幕府史料の編纂以前に断絶したために、重成の生没年に関しては勿論、居城についても下総本佐倉城説・上総大網城説などがあって明らかになっていない。そのため、現在重成・重勝の所領については、佐倉藩・大網藩とは別箇に「下総三浦藩」という呼称を仮に用いている状況である。
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