三里塚
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三里塚(さんりづか)とは千葉県成田市の農村地区の名称。しかし、「三里塚」という固有名詞として用いられた場合には三里塚近辺で行われた(行われている)三里塚闘争(さんりづかとうそう)あるいは成田闘争(なりたとうそう))と(主として反対側より)呼ばれる新東京国際空港(成田空港)建設反対運動、およびこれに関連する事柄のことを指す。
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[編集] 闘争発生の経緯
1960年代初頭、来るべく国際化に伴う航空(空港)需要の増大を見越し、政府は羽田の東京国際空港に代わる本格的な国際空港の建設を計画した。1963年(昭和38年)の案では、現空港の4km南にある富里地区を候補に上げた。しかし、富里は農場経営のモデルコースだったことから激しい反対運動が勃発し、2年後に富里地区建設案は白紙撤回された。その後、候補地は四転五転したがいずれも反対運動にあったため建設計画自体が頓挫する恐れが出てきた。このことを懸念した佐藤栄作内閣は、1966年(昭和41年)6月に御料牧場があった三里塚・芝崎地区を候補地として、同年7月4日に閣議決定してした。御料牧場は空港予定地の4割弱しか占めていなかったにもかかわらず、地元から合意を得るどころか事前説明すらなかったこと、代替地等の諸準備が一切なされていなかったことから地元農民は猛反発したが、政府は閣議決定であることを盾にして一切の交渉行為を行わなかったために、地元農民達は7月20日に「三里塚芝山連合空港反対同盟」を発足させ、三里塚闘争が始まった。
[編集] 紛争の経過
[編集] 初期の三里塚闘争
開港後の現在では、『三里塚闘争』というと新左翼による反政府・反権力運動というイメージが強いが、当初は純然たる農民による農地防衛を意図する闘争活動であった。空港用地買収を困難にさせる為に土地一坪を購入し合う「一坪運動」を展開し、「無抵抗の抵抗で土地を守る」という考えに基づいたものであった。三里塚・芝山地区には戦後入植して農民となった人が多く、そうした入植者は元満蒙開拓団員の引揚者が主体となっており、農民としての再起をかけて行った開拓がようやく軌道に乗り始めた時期に当たっていた。そのため、自分たちが創り上げた土地を自分たちで守るという考え方が特に激しくなっても無理がない背景があった。少年行動隊、青年行動隊、果ては婦人行動隊までが組成され、村ぐるみ、家族ぐるみの活動で始まったのが、本来の三里塚闘争だった。
[編集] 新左翼セクトの介入
しかし、闘争勃発後の翌年1967年(昭和42年)には早くも新左翼各派が反国家権力闘争、特にベトナム戦争反戦運動や佐藤内閣への反発の象徴的な対象として活動に介入を始め、闘争は次第に過激さを増していった。それでも、クリスチャンで地区の教会の信徒だった戸村一作反対同盟委員長が独特のキャラクターによって活動をリードし、地元農民と新左翼活動家とが互いに協力もしくは利用し合いながら呉越同舟で活動を行っていた。しかし、やがて新左翼セクト間の反目、運動方針や新左翼セクトとの関係性のあり方についての意見の相違から、反対同盟が「小川派」「熱田派」「北原派」等のいくつかの派閥に別れて活動を行うようになっていった。
当初、革新政党も参加したが、日本社会党は、千葉県知事と紳士協定を結び、早々に運動から離脱。日本共産党も、またトロツキスト批判を開始し、運動から離脱。階級闘争至上主義の革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)も、「成田闘争は、小ブルジョア農民の自己保身」と揶揄したことから、運動から追放されていた。三里塚・芝山連合空港反対同盟は、武装闘争路線の新左翼党派およびその影響下にある三派全学連の支援を受けることになった。
[編集] 闘争の激化、開港
こうした反対闘争が高まる中、政府は一貫した非妥協の姿勢で建設計画を遂行し、1971年(昭和46年)2月22日に建設予定地で警察を用いて第1次行政代執行、反対同盟と機動隊が衝突した。9月16日にも建設予定地で第2次行政代執行、戦争さながらの闘争によって双方に多数の負傷者を出しながら、反対派の鉄塔が倒された。当初計画の滑走路3本から1本に大幅変更しながらも、1978年(昭和53年)4月の開港に漕ぎ着けるところまで来た。しかし、開港を目前に控えた3月26日に第四インターナショナル(略称:第四インター)の活動家を中心とした決死隊が管制塔を占拠し各種設備を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。政府は4月の開港予定を延期せざるを得ず、外国に対して大恥をかかされたが、2ヶ月後の5月20日に開港を果たし、成田空港建設反対運動、三里塚闘争の第一幕は閉じる(実質的に沈静化する)ことになる。
しかし、多大の犠牲を払っても、政府の側の空港建設の決意を覆すことは出来ず、建設が既成事実化するにつれ、条件闘争に転ずる者が続出した。反対同盟も数派に分裂、北原派は中核派と密接な関係を結んで闘争を進めたが、最後まで農地売却を拒否した者の土地が強制収用されるに及んで、組織的な反対運動は、ほぼ終息した。
[編集] 開港後の動き
開港絶対阻止をスローガンに活動を進めてきた反対運動は、空港が開港されてしまったことにより方向を転換せざるを得なくなった。開港阻止から廃港へとスローガン、目的を変えはしたものの、名実共に国際空港として認知され機能している空港を廃港に追い込むことに対する無力感が広がり、新左翼集団の摘発、細分化による運動の停滞による支援パワーの減衰と社会情勢の変化、活動家ことに領袖クラスのメンバーの高齢化と成田空港建設反対運動にとっては逆風の状態が続いていたが、成田空港拡張計画の阻止は成功していた。この潮流を決定的にしたのは1995年(平成7年)に当時の内閣総理大臣村山富市(日本社会党)が行った反対同盟に対する謝罪で、この出来事をもって「北原派」以外の現地農民グループは実質的な反対運動を終了させた。現在も一坪地主などを中心に用地買収に応じていない活動家もおり、新左翼セクトを中心に反対集会なども開かれてはいるが、そこにはかつての「自分たちの土地は自分たちで守る」「スジを通して欲しい」という現地農民達の思い、活動の原点はなく、三里塚闘争は完全に形骸化したものになりつつある。