中条藤資
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中条 藤資(なかじょう ふじすけ、? - 永禄11年(1568年)は、越後の国人領主中条氏当主。鳥坂山城城主。中条定資の子。中条景資の父。弾正左衛門尉 越前守。梅波斎。
中条氏は揚北衆三浦党の一族。鎌倉幕府の御家人和田氏の流れである。
越後守護代長尾為景が守護上杉房能を倒し下克上をした際には、他の揚北衆の諸氏が反長尾陣営に与する中、為景を支持し、新守護の上杉定実に仕えた。一時上条定憲の反乱に与したこともあるが、結局は為景方に帰参している。為景の没後は為景の子の長尾晴景と対立し、伊達稙宗の子(伊達実元、一説には藤資の妹の子ともされている)を定実の養子に迎え伊達氏の援助の元で守護権力の復活を図ったが天文の乱で頓挫する。その後は晴景の弟の長尾景虎を擁しその当主の就任に尽力した。以後は景虎(謙信)の重臣として一門に次ぐ待遇を受けた。その後も各地で戦功を挙げ、川中島の戦いでは謙信より血染めの感状を貰うなど晩年まで第一線で活動を続けた。享年は77歳とも80を超えていたともいわれる。