川中島の戦い
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川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦い。いずれの戦いも、千曲川と犀川が合流する中州である川中島(現在の長野県長野市南郊)で行われたことから、川中島の戦いと総称する。
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[編集] 概要
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。単に「川中島の戦い」と言った場合には、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多い。
戦いは各々、上杉謙信軍(以下、長尾軍あるいは上杉軍。)が北信濃の奪回と越後の防衛を、武田信玄軍(以下、武田軍。)がその阻止と越後攻めを目的とした。結果として、川中島の戦い以後も武田信玄が北信濃を支配し続けて信濃支配を磐石にしたため、武田信玄が戦略的勝利をおさめたと評価しうる。一方、上杉軍は北信濃をほとんど奪うことができなかったものの、上杉謙信も越後を守りきったため、ある程度の成功を収めたといえる。
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父の武田信虎を追放して家督を継いだ武田晴信(武田信玄)は、天文11年(1542年)に諏訪頼重を攻めて諏訪氏を滅ぼした。以後、武田軍は連年、信濃国への出兵を繰り返して領地を広げて行った。これに対して、信濃国には統一大名が存在せず、中小大名が分立して長年互いに反目していたため、一致協力して武田氏の侵略に対抗することが難しかった。
晴信は、高遠氏、藤沢氏、大井氏など、信濃の国人衆を次々と攻略した。天文16年(1547年)には、笠原氏の志賀城(長野県佐久市)を落として、降伏した将士を奴隷とし、その妻子を売り払っている。天文17年(1548年)の上田原の戦いで、北信濃の名族・村上義清に晴信は大敗。これを機に、信濃の国人衆は連合して武田氏への反撃に出るが、反目して分裂してしまう。晴信は、塩尻峠の戦いで信濃守護家の小笠原長時を撃破して再び優勢に立ち、天文19年(1550年)には小笠原長時を追い払い、中信を制圧する。
同年、晴信は村上義清の支城の戸石城を攻めるが、またも手痛い敗北を喫する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、砥石城を落とすことに成功。村上義清は葛尾城に孤立して、抵抗する力を失った。
晴信は、越後国との国境地帯の北信濃の一部(川中島)や、南信濃の一部を除き、信濃国をほぼ制圧した。これにより、武田晴信と越後国の長尾景虎(上杉謙信)は、信越国境をはさみ、対峙することになる。
[編集] 川中島
信濃国北東部、信越国境地帯周辺の千曲川のほとりには善光寺平と呼ばれる沖積平野が広がる。この地には、信仰を集める名刹・善光寺があり、有力な経済圏を形成してた。善光寺平の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる中州を川中島と呼ぶ。当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がり、経済的な価値はあまりなかった。しかし、越後国につながる街道が通る戦略上の要地で、武田晴信にとっては信濃国支配の完遂のために、長尾景虎にとっては越後国防衛のために是非とも支配しておかねばならない土地であった。
この地域には、高梨氏、須田氏、井上氏、島津氏(信濃島津氏)、栗田氏、市川氏などの中小国人領主、地侍が分立していた。彼らは村上義清を盟主として武田軍の信濃侵略に抗していたが、武田軍の連年の攻勢の前に村上氏は風前の灯となっていた。そのため、北信濃の国人衆は、越後国の長尾景虎に援助を仰ぐことになる。
武田軍による北信濃侵攻は、景虎にとっても脅威であった。また、長尾氏と北信濃国人衆とはかねてから密接な関係があった。特に高梨氏は、父・長尾為景の時代には、関東管領上杉氏との戦いで援助を受け、当代の高梨政頼の妻は景虎の叔母でもあり、古くからの同盟関係にあった。このため、景虎は北信濃での戦いに本格的に介入することになる。
[編集] 第一次合戦
川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553年)に行われ、布施の戦いとも言う。長尾景虎が北信濃国人衆を支援して、初めて川中島に出陣して武田晴信と戦った。
天文22年(1553年)4月、晴信は北信濃へ出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、景虎に支援を願った。村上義清は、北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、体勢を立て直した武田軍は、再び北信濃に侵攻し、村上方の諸城を落として、村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。
9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。川中島の八幡(布施)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城を落とし、青柳城を攻めた。武田軍は、荒砥城に夜襲をしかけ、長尾軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡に兵を引く。塩田城に籠もって晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信も10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。
景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進めている。
なお、武田氏研究者の柴辻俊六は、この戦いに景虎が自ら出陣していたとされていることについて、確実な史料での確認が取れないとして疑問を呈している。
[編集] 第二次合戦
川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも言う。武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。
天文23年(1554年)、晴信は後北条氏、今川氏とそれぞれ同盟を結んで背後を固めた(甲相駿三国同盟)。その上で、景虎の家臣・北条高広に反乱を起こさせた。景虎は北条高広を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。
天文24年・弘治元年(1555年)、信濃国善光寺の栗田鶴寿が武田方に寝返り、武田氏の勢力が信越国境真近に迫った。4月、景虎は善光寺奪回のため、川中島へ出陣した。栗田鶴寿と武田氏の援軍兵3000は、栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城した。景虎は旭山城を封じ込めるため、そして北信濃への前進拠点として葛山城(長野県長野市)を築いた。
晴信も兵を率いて川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる。兵站線(前線と根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだ。長尾軍の中では動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。
閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信濃国人衆の復帰を認め、旭山城を破却することになった。
その後、晴信は木曽郡の木曽義康・義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。
[編集] 第三次合戦
川中島の戦いの第三次合戦は、弘治3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも言う。武田晴信の北信濃への著しい勢力伸張に反撃すべく、長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。
弘治2年(1556年)、越後国では景虎が出家隠遁を図る事件が起きている。家臣団が景虎への忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっている。長尾氏が内輪もめを起こしている間に、晴信は北信濃国人衆への調略を進め、多数の国人衆を寝返らせた。また、真田幸隆に川中島の尼巌城(長野県長野市)を攻めさせ、8月にこれを陥れた。晴信は景虎と不和になった大熊朝秀を調略し、反乱を起こさせて越後侵攻を図った。結局、大熊朝秀の反乱は失敗し、甲斐国へ逃れている。
弘治3年(1557年)正月、景虎は更科八幡宮(武水別神社、長野県千曲市)に願文を捧げて武田氏討滅を祈願し、晴信への憎しみを顕にしている。2月、晴信は長尾方の前進拠点であった葛山城を猛攻して落とし、高梨政頼の居城飯山城に迫った。北信濃国人衆は激しく動揺して景虎に援軍を要請するが、景虎は豪雪のために出陣することができない。その間に晴信は調略を進め、北信濃の国人衆が次々と武田方へ寝返った。
4月18日、雪が融け、ようやく景虎は川中島へ出陣。4月から6月にかけて、武田方の諸城を落とし、武田領深く侵攻して反撃に出る。長尾軍は方々を放火、乱取りして荒らしまわる。だが、武田軍は決戦を避けて、景虎ははかばかしい戦果を挙げることができず、飯山城(長野県飯山市)に引き揚げた。7月、景虎は尼巌城を攻めるが失敗。一方、武田軍の支隊が安曇郡の信越国境近くの小谷城(おたりじょう、長野県北安曇郡小谷村)を落とし、長尾軍を牽制。
8月29日、両軍は上野原(長野県長野市上野)で交戦するが、決定的な戦いではなく、戦線は膠着した。景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げた。晴信も10月には甲斐国へ帰国した。
京では、将軍・足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江国朽木谷へ逃れる事件が起きた。義輝は勢力回復のため景虎の上洛を熱望しており、長尾氏と武田氏の和睦を勧告する御内書を送った。晴信は、武田氏との和睦の条件として、義輝に信濃守護職を要求した。義輝はこれを許し、武田氏と長尾氏の和睦が実現した。これにより、武田氏の信濃国支配が幕府により正当化されることになった。
永禄元年(1558年)、晴信は和睦を無視して北信濃へ出陣。越後国への侵攻を企図している。義輝は御内書を送り和睦無視を責めるが、晴信は「信濃守護の職責を果たすため他国の侵略と戦っている」と、自らの正当性を主張して、逆に景虎を責めた。
一連の戦闘によって武田氏の北信濃支配は更に拡大し、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏の勢力は弱体化する。このため、景虎は残る長尾方の北信濃国人衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになる。
[編集] 第四次合戦
川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。関東出兵を企図する上杉政虎(長尾景虎、上杉謙信)は、背後の武田信玄を叩くべく川中島に出陣。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。
有名な第四次川中島の戦いだが、合戦の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語しかない。そのため、本節では史料的な信頼性には欠けるが『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『妙法寺記』や武田氏、上杉氏の感状など、この合戦があったことを伝える信頼性の高い史料は残っており、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。
[編集] 合戦の背景
天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた。
北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。
関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国を発向した。
[編集] 合戦の経過
上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは、兵18000を率いて犀川・千曲川を渡り、妻女山に陣取った。妻女山は、川中島のすぐ南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が川中島に出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。
信玄は、24日に兵2万を率いて川中島に到着し、西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。
これが互いに退路を塞ぐ形になり、そのまま睨み合いが続いた。武田軍は、この布陣による戦線硬直を避けるため、29日に川中島の中心に当たる八幡原を横断して海津城に入城した。
睨み合いが続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信春に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信春は、兵を二手に分ける、大規模な別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下るから、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。武田信玄の軍師として名高い山本勘助だが、『甲陽軍鑑』以外の史料には所見がなく、戦後に発見された『市川文書』では伝令将校的な武士であり、軍師としての山本勘助の実在は現在のところ否定されている。
9月9日深夜、高坂昌信・馬場信春らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、千曲川を渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。政虎は、甘糟正重に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。政虎自身はこの間に、八幡原に布陣した。
10日午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は愕然とした。政虎は、猛将・柿崎景家を先鋒に、車懸りの陣(車輪のスポークのように部隊を配置し、次々攻撃する陣形)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、信玄の弟の信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野源五郎らが討死するなど、押しまくられる。
乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。馬上の政虎は床机(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は軍配をもってこれを凌ぐが肩先を負傷し、信玄の供回りが駆けつけたため惜しくも討ちもらした。頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、史実とは考えられていない。ただし、盟友関係にあった関白・近衛前久に宛てて、合戦後に政虎が送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。
政虎に出し抜かれ、もぬけの空の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信春率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘糟隊を蹴散らし、昼前(午前12時頃)には八幡原に到着した。予定よりかなり遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃になお耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に退き、信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵3000と合流して、越後国に引き上げた。
この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した激戦となった。信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかったとされる。
この合戦に対する信玄と政虎の感状が六通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。
[編集] 参戦武将
- 武田軍
- 旗本本隊(8000人)
- 妻女山別働隊(12000人)
- 上杉軍(13000人)
- 総大将:上杉政虎
- 直江実綱(小荷駄護衛)
- 甘粕景持(殿(しんがり))
※『甲陽軍鑑』などによる。
[編集] 第五次合戦
川中島の戦いの最終戦である第五次合戦は、永禄7年(1564年)、塩崎の対陣とも言う。上杉輝虎(上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は川中島に出陣するが、武田信玄は決戦を避けて対陣し、にらみ合いで終わった。
上杉輝虎は、関東へ連年出兵して北条氏康との戦いを続け、武田信玄は常に輝虎の背後を脅かしていた。輝虎の信玄への憎悪は凄まじく、居城であった春日山城(新潟県上越市)内の看経所と弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)に、「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓っている。
永禄7年(1564年)、飛騨国の三木良頼と江馬時盛の争いに、信玄が江馬氏を、輝虎が三木氏を支援して介入する。8月、輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した。信玄も塩崎城に布陣するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、輝虎は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。
信玄は越後国を寸土も領有できなかったが、一連の戦いの後も北信濃の支配権は武田氏が握っていたため、戦略的には武田氏の勝ちといえる。
[編集] 戦後
永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁して大軍を率い、上洛を果たした。同年11月、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河国に乱入。永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれて以降、弱体化していた今川氏の領国はたちまち瓦解し、当主の今川氏真は逃亡した。これに激怒した北条氏康は、駿河国へ出兵して武田軍と戦いになり、三国同盟は崩壊した。
時代は織田信長の台頭を巡る新たな局面に移ることになる。
ずっと後年、天下統一をなした豊臣秀吉が川中島の地を訪れた。人々は信玄と謙信の優れた軍略を称賛したが、秀吉は「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝わる。
狭い川中島を巡る局地戦で、信玄と謙信が兵力と10年以上の時間を浪費したため、いたずらに信長の台頭を許す結果になったと、古来、多くの論者がこの戦いを評している。それゆえに、信玄、謙信は、所詮は地方大名にすぎず、天下人となった信長、秀吉の方が器量は遥かに上であると断ずる作家や評論家は多い。
一方で、近年の論者には、双方にとって必要な戦いであったという見方もある。すなわち、甲相駿三国同盟が戦略の大前提であった信玄にとって、後北条氏の敵対者であった謙信との対決は必然であり(後に三国同盟を破棄して駿河国へ乱入した信玄は孤立して厳しい戦略状況に陥っている)、謙信にとっても信玄の北信濃領有を易々と許せば本国の越後国自体が危機に陥りかねないことから、両者の衝突は必然であったとするものである。
[編集] 両軍の兵力
江戸時代の幕府の顧問僧であった天海の目撃情報などに基づく。
上杉軍 | 武田軍 | 備考 | |
---|---|---|---|
第一次 | 8,000人 | 10,000人 | 上杉軍勝利? |
第二次 | 8,000人 | 12,000人 | |
第三次 | 10,000人 | 23,000人 | 武田軍勝利? |
第四次 | 18,000人 | 20,000人 | |
第五次 | ?人 | ?人 |
[編集] 異説
川中島の戦いにおける記録の中には、多くの日本人が知るものとは別の説が存在する。
- 川中島の戦いは、戦を行う理由として、武田、長尾(上杉)両氏が内乱を起こしかねない臣下に対して求心力を高めるためのパフォーマンスのようなものだったとする説がある。また、同盟関係の証明のため、武田が攻めざるを得なかった、という説もある。
- また啄木鳥の戦法についても、妻女山の尾根の傾斜がきつく、馬が通るだけの余裕がないため実際に挟み撃ちに出来たかについて疑問が残る。
- 第四次川中島合戦には「予期せぬ遭遇説」がある。両軍ともに濃霧の中で行軍していて、本隊同士が期せずして遭遇して合戦になったという。当時の合戦にしては異例ともいえる両軍の死亡率の高さもこれで説明されることになり、状況証拠から分析する限りでは「啄木鳥の戦法」よりも信憑性がある。(そもそも「啄木鳥の戦法」説は「甲陽軍鑑」を唯一の出自としており、その「甲陽軍鑑」は資料性がほぼ否定された創作物の類であることに留意)。なお、「予期せぬ遭遇説」についてはNHKの歴史番組で紹介された。
[編集] 作品
川中島の戦いが描かれた主な作品を挙げる。
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
[編集] 映画
- 角川春樹製作。戦国時代にタイムスリップした伊庭三尉ら自衛隊員は長尾景虎の上洛作戦に味方。11人の自衛隊員たちは川中島で戦国最強の武田騎馬軍団2万と激突する。戦国武者と現代兵器の大規模な合戦シーンは実に迫力があり映画は大ヒットした。
- 角川春樹が再び川中島の戦いを映像化。カナダの平原で多数のエキストラを動員して大規模ロケを敢行。黒一色の軍装の上杉軍と赤一色の武田軍が激突する(当り前だが、史実の両軍はこんな軍装ではない)。史実再現性よりもダイナミズムを重視した映像表現は小室哲哉の音楽もあいまって幻想的。赤一色の武田軍を黒一色の上杉軍が奔流の如く突き崩して行く様を上空から撮影したシーンは、耽美的なマスゲームのようで圧巻。クライマックスの謙信と信玄の一騎討ちは、通説の床机に座る信玄に馬上の謙信が打ち込むのではなく、双方が馬上で川に乗り入れて激しく斬り合う。この描写は全く根拠がない訳ではなく、和歌山県立博物館所蔵の屏風絵(紀州本)にある。
[編集] テレビドラマ
- 川中島の戦いはDVD『NHK想い出倶楽部2~黎明期の大河ドラマ編~ (5)「天と地と」』に収録。その他の映像は現存しない。
- 第27回 『川中島血戦(一)』、第28回 『川中島血戦(二)』。当時の大河ドラマとしては最大規模のロケを敢行した。この回はDVD『NHK 大河ドラマ 武田信玄 完全版 第壱集』に収録されている。
- 風林火山(1992年、日本テレビ、山本勘助…里見浩太朗、武田信玄…舘ひろし、上杉謙信…高嶋政宏)
- 風林火山(2006年、テレビ朝日、山本勘助…北大路欣也、武田信玄…松岡昌宏、上杉謙信…徳重聡)
- 風林火山(2007年、NHK大河ドラマ、山本勘助…内野聖陽、武田信玄…市川亀治郎、上杉謙信…Gackt)
- 大河ドラマガイドブックでの製作統括の若泉久朗や脚本の大森寿美男のインタビューによると、主人公の山本勘助が討死する川中島の戦いが最終回にあたる予定(放送は2007年12月の見込み)。本作の最大のクライマックスとなるため、予算を残しつつ壮大な合戦シーンを撮りたいと述べている。
- また、馬上での一騎討ちを行う謙信役のGacktは東京ドームでのライブで乗馬疾走を披露しており、その点も見込まれてのキャスティングとのこと。
[編集] 小説
- 井上靖『風林火山』新潮社、改訂版2005年、ISBN 4101063079
- 海音寺潮五郎『天と地と 下巻』文藝春秋、改訂版2004年、ISBN 4167135450
- 半村良『戦国自衛隊』角川書店、新装版2005年、ISBN 4041375339
- 同名映画の原作。タイムスリップした自衛隊員たちが上杉謙信に協力する。伊庭三尉と謙信の天下統一の過程で武田軍と川中島で決戦する。
- 映画版と異なり、自衛隊員は上杉軍を現代兵器で支援。上杉軍・自衛隊は20両のトラックで足軽を戦場輸送する機動戦術を展開し、車懸りの陣と呼ばれる。武田軍は車両を攻撃して何両か破壊する。武田軍の車両を叩く戦法は啄木鳥戦法と呼ばれた。最後は信玄が謙信に斬り込みをかけて、謙信が格闘の末にこれを討ち取り、上杉軍・自衛隊の勝利。
[編集] その他
[編集] 第六次川中島の戦い
平成18年(2006年)春、テレビ番組「トリビアの泉」(2006年(平成18年)3月29日放送)の中で、決着のつかなかった川中島の戦いの白黒をつけるべく、武田信玄の子孫である武田邦信(信玄の次男竜芳の子孫で高家旗本の家系)と上杉謙信の子孫である上杉知彦(最後の米沢藩主の弟の家系)によるオセロ3本勝負が、川中島古戦場で行われた。一回戦は武田方の勝利。次の休憩時間には、上杉がオセロ攻略本を読む一方で、武田は携帯メールをいじっていた。続く二回戦では、途中に武田方に電話が掛かって来るというハプニングが発生し、集中力に欠けてしまった武田方が敗北、三回戦は上杉方が圧勝。結局、2勝1敗で川中島の戦いの最終的な勝者は上杉に決した。
[編集] 川中島ダービー
Jリーグのサッカークラブ、アルビレックス新潟(新潟県がホーム)とヴァンフォーレ甲府(山梨県がホーム)の試合は、それぞれ謙信と信玄にゆかりのある地をホームタウン(本拠地)としているため、現代版の川中島合戦として盛り上がる。長野での初対決では、武田・上杉両軍による甲冑武者パフォマーンスが行われ、以来定着した。ちなみにダービーとは本来、地元を同じくするチーム同士の試合をいうが、日本では因縁があったり特別盛り上がる試合を指すこともあり、川中島ダービーは後者。
[編集] 戦国祭り
戦国祭りとは、各地方自治体が主体とした祭り。 (信長王取材)。
[編集] 参考文献
- 笹本正治 監修・長野県飯山市 編『川中島合戦再考』(新人物往来社、2000年) ISBN 4404028997
- 平山優『戦史ドキュメント 川中島の戦い』上、下(学研M文庫、2002年)
- 三池純正『真説・川中島合戦 封印された戦国最大の白兵戦』(洋泉社新書y、2003年) ISBN 4896917529
- 柴辻俊六『信玄の戦略―組織、合戦、領国経営』(中央公論新社、2006年) ISBN 4121018729
- 柴辻俊六『武田信玄合戦録』(角川学芸出版 、2006年) ISBN 4047034037
- 桑田忠親監修『日本の合戦(3)群雄割拠』 (新人物往来社、1978年) ISBN B000J8ONFG
- 桑田忠親『新編日本合戦全集 応仁室町編』(秋田書店、1990年)ISBN 4253003796
- 『クロニック戦国全史』 (講談社、1995年)ISBN 4062060167
- 杉山博 『日本の歴史 (11) 戦国大名』(中央公論新社、1974年)ISBN 4122000866
- 磯貝正義、服部治則校注『甲陽軍鑑(上)(中)(下)』(新人物往来社、1965年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 【川中島の戦い】長野市「信州・風林火山」特設サイト…財団法人長野観光コンベンションビューロー開設。歴史解説、史跡・観光・イベント案内。
- 山本勘助は実在したか?
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