亀井茲胤
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 享保11年(1726年) | |||
死没 | 宝暦2年7月9日(1752年8月18日) | |||
別名 | 徳蔵(幼名) | |||
戒名 | 徳巌賢昶陽昇院 | |||
墓所 | 島根県鹿足郡津和野町後田の永明寺 | |||
官位 | 従五位下、隠岐守、信濃守 | |||
藩 | 石見津和野藩主 | |||
氏族 | 松平氏(水戸系)→亀井氏 | |||
父母 | 父:松平頼明、養父:亀井茲延 | |||
兄弟 | 松平頼永、松平武元、遠山友明、 松平頼幸、亀井茲胤 |
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妻 | 正室:菅沼定好の娘・富子(陽晃院) | |||
子 | 亀井茲休、養子:亀井矩貞 娘(松平頼多室) |
亀井 茲胤(かめい これたね)は、石見津和野藩の第6代藩主。
享保11年(1726年)、常陸府中藩の第3代藩主・松平頼明の5男として生まれる。寛保2年(1742年)11月11日に第8代将軍・徳川吉宗に謁見し、12月18日に従五位下・隠岐守に叙位・任官する。寛保3年(1743年)閏4月3日に津和野藩の第5代藩主・亀井茲延が隠居したため、その養子として家督を継ぎ、第6代藩主となる。
延享2年(1745年)12月に信濃守に遷任する。藩財政再建のため、蝋や和紙の製造・販売を奨励するなどしたが、一方で寛保3年(1743年)の強風による被害、宝暦元年(1751年)の大雪被害における救済対応に追われるなど、藩政は多難を極めた。
宝暦2年(1752年)7月9日に津和野で死去。享年27。後を養子の亀井矩貞が継いだ。
狩野派の絵画に優れた画人であったといわれる。
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