井伊直孝
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井伊 直孝(いい なおたか、天正18年2月11日(1590年3月16日)- 万治元年6月28日(1659年8月16日))は井伊直政の次男。江戸時代前期の譜代大名。近江彦根藩主。正室は蜂須賀家政の娘。子に直滋、直縄、直時、直澄。
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[編集] 経歴
父・直政の死後、家督は兄の井伊直勝が継いだが、直勝は病弱で武将としての器量にも欠けたため、井伊氏の実権は弟にあたる直孝が握っていたという。眼光鋭く、父・直政に似て剛直で無骨、寡黙な性格であったため、夜叉掃部(やしゃかもん)といわれ、恐れられた。直政正室の侍女が生んだ子のため正室に疎んじられ、慶長8年(1601年)に初めて父子の対面を果たす。直政の死後、徳川家康・徳川秀忠に仕え白井藩1万石の大名となる。慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では、病弱の兄に代わって井伊軍を指揮。真田山攻防戦では軍令違反の末、篭る真田信繁勢に打ち据えられ大敗を喫するも、家康はあえて賞賛し、その際井伊氏の家督を直勝から直孝に継ぐように命じた(直勝は安中藩に移動)。彦根藩主となって参陣した慶長20年(1615年)の大坂夏の陣においては藤堂高虎とともに先鋒を務め、大坂方の名将・木村重成と長宗我部盛親を討ち取り、また大坂城の籾蔵に篭っていた淀殿・豊臣秀頼母子を自害させるという大功を挙げた。直孝も父譲りの「赤備え」を率いていた。
その後、大老格に任ぜられるなど(直孝が大老職に就いたかどうかは議論が分かれている)徳川氏における家康時代最後の宿老として徳川家光に仕え、最終的には徳川氏の譜代大名の中でも最高となる30万石(最終的には35万石)の領土を与えられた。朝鮮通信使からも、徳川家臣中でもっとも恐るべき人物と目されていたという。
法名:久昌院殿豪徳天英大居士。墓所:世田谷区豪徳寺の大溪山豪徳寺。
[編集] 人物
夜叉掃部と呼ばれるにふさわしい剛毅な性格であり、その性格を各方面で発揮した。関ヶ原の戦いの折に家康が伊達政宗に与えた『百万石の朱印状』を、「危険な物」として政宗から取り上げ燃やした。また、下って鄭成功の救援要請を受けるかどうか幕府内で審議した際、要請受諾を主張した徳川頼宣に対し、豊臣秀吉の朝鮮出兵を引き合いに出して一喝したこともあった。また、晩年には粗末な身なりを医者にとがめられた際に、「こうでないと先手が務められない」と反論したこともあった。
一方で、嫡男井伊直滋に理不尽な理屈をつけて追放するなど、直政譲りの残酷な性格を覗かせる場面もあれば、狩に出たときに豪徳寺で雨宿りをするきっかけになったというほのぼのとした招き猫にまつわる伝承もある。(直孝を招いた猫を招き猫のルーツとする説がある。なお、この時の猫を再度キャラクター化したものがひこにゃんである)
寡黙な性格で、余計なことを喋らなかったため、その発言は重きを成したという。さらに、直孝に色々と話を聞きたい、という話も 断っていたので、ますますその言葉は貴重になった。その為、直孝から何らかの言葉をもらっただけで、それを自慢するほどであった。 さらに、いわれたものが、「お前だけに話すといわれたので話せない。」と、その内容をもらさなかったので、さらに直孝の言葉の 重みが増した。
[編集] 家康ご落胤説
上記のように早くから兄・直勝にかわって井伊氏の実権を握っており、また家康の命令で家督を横領したような形になったことから、早くから「実は家康の隠し子ではないか」という巷説が流れていた。ちなみに直孝の実母については直政正室の侍女、あるいは直政が宿所とした農家の娘など複数の説があり、未だに素性不明という。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 八幡和郎『江戸300藩バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』光文社、2004年、ISBN 4-334-03271-0
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