蜂須賀家政
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蜂須賀 家政(はちすか いえまさ)は、安土桃山時代の武将・大名。徳島藩祖
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時代 | 戦国時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 永禄元年(1558年) | |||
死没 | 寛永15年12月30日(1639年2月2日) | |||
改名 | 彦右衛門(通称) | |||
諡号 | 蓬庵 | |||
戒名 | 蓬庵常仙瑞雲院 | |||
墓所 | 徳島県徳島市の興源寺 | |||
官位 | 従五位下、阿波守 | |||
氏族 | 蜂須賀氏 | |||
父母 | 父:蜂須賀正勝 | |||
妻 | 正室:生駒家長の娘 | |||
子 | 蜂須賀至鎮、娘(池田由之室)、 娘(井伊直孝室)、娘(戸田忠光室) |
- 蜂須賀正勝(小六)の子で、父の代わりに阿波の大名となる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 秀吉の家臣時代
永禄元年(1558年)、蜂須賀正勝の嫡男として生まれる。織田信長、次いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、秀吉が織田信長の命令で行なった中国毛利攻めには黄母衣衆として父と共に従軍した。
天正10年(1582年)、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、秀吉に従って山崎の戦いに参加した。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参加し、天正12年(1584年)に播磨佐用郡内に3000石を与えられた。
天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻めなど、秀吉の天下統一における戦争に従軍し、戦功を挙げた。雑賀攻めの後に行なわれた四国征伐では、阿波木津城攻め、一宮城攻めなどで武功を挙げた。四国征伐後、その戦功により秀吉は正勝に対して阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕える道を選んで辞退し、秀吉はやむなく家政に阿波を与えたという。こうして家政は天正14年(1586年)に阿波18万石の大名となった。このとき、従五位下、阿波守に叙任する。
そして徳島城を築城した。一説に阿波踊りは、城が竣工した折、家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥ともいう。
天正15年(1587年)、九州征伐に参加し、日向高城攻めで功を挙げる。天正18年(1590年)、伊豆韮山城攻めでは福島正則と共に先鋒を務め、武功を挙げた。
文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵には、文禄の役・慶長の役の2度とも出陣する。特に慶長2年(1597年)の南原城の戦い、蔚山城の戦いでは救援軍の一端を担い、浅野幸長を助け出すという武功を挙げた。ところが、戦線縮小を主張する石田三成らにかえってこの戦闘行為を非難され、預かっていた蔵入地を没収される懲罰を受けた。
[編集] 関ヶ原
慶長3年(1598年)に秀吉が死去し、慶長4年(1599年)に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに三成を襲撃しようと蜂起したり(資料によっては、この襲撃に家政は参加していないとするものもある)、子の至鎮と徳川家康の養女の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親家康大名として活動している。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは、自身は病気として出馬せず、西軍に対しては軍勢だけを送り、大坂久太郎橋・北国口の警護を担当した。しかし、家康の上杉景勝征伐に同行させていた至鎮は関ヶ原の本戦で東軍として参加して武功を挙げたため、戦後に家康から所領を安堵された。しかし家政は西軍についた責任を取る形で剃髪して蓬庵と号し、家督を至鎮に譲って隠居した。
[編集] 江戸時代
慶長19年(1614年)から始まった大坂の陣では、一時、西軍参加を促す密書に応じて大坂入城を志すも、至鎮に説得されて翻意した。結局、「自分は無二の関東方」と称して与力を拒絶するとともに、駿府城の家康を訪ねて密書を提出している。それでも豊臣氏への思い入れは断ちがたかったようで、慶長20年(1615年)の夏の陣では、渡海を渋って着陣を5月に遅らせたため、戦闘には参加しなかった。しかし冬・夏の陣で嫡男の至鎮が戦功を挙げたため、戦後に蜂須賀家は淡路一国を与えられ、25万7000石に加増された。
元和6年(1620年)に至鎮が夭折した後は、幼くして襲封した嫡孫・忠英の後見を幕府から命じられ、忠英が成人する寛永6年(1629年)まで政務を取り仕切り、藩政の基礎を築いた。
戦国以来の長老として、将軍・徳川家光の側に御伽衆として出仕することもあったという。寛永15年(1638年)12月30日に死去。享年81。
[編集] 人物
- 伊達政宗に「阿波の古狸(ふるだぬき)」と評されたという。
- 関ヶ原では親家康的な一面があったとはいえ、それは「石田三成憎し」から出た感情的行動だったと思われる。家政自身は豊臣家に対する忠義心が残っていたものと思われる。関ヶ原や大坂の陣における消極的な行動が、それを物語っている。