井伊直暉
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井伊 直暉(いい なおてる、寛政3年11月5日(1791年11月30日) - 文政9年5月24日(1826年6月29日))は、越後与板藩の第7代藩主。直勝系井伊家11代。
井伊直広(6代藩主・井伊直朗の養子)の長男。母は性月院(梅若氏)。正室は阿部正簡の娘(井伊直中の養女)。官位は従五位下。宮内少輔。右京亮。
寛政3年(1791年)11月5日、江戸で生まれる。幼名は伊予大郎。本来なら直朗の後を継ぐはずだった父・直広が早世したため、寛政4年(1792年)8月17日、直朗から世子として指名される。文政2年(1819年)12月の直朗の死去により、文政3年(1820年)2月12日に後を継いで藩主となった。与板城の築城に尽力したが、文政9年(1826年)5月24日に36歳で死去し、後を養嗣子の井伊直経が継いだ。墓所:東京都墨田区向島の弘福寺。
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