井伊直朗
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井伊 直朗(いい なおあきら、寛延3年5月4日(1750年6月7日) - 文政2年12月20日(1820年2月4日))は、越後与板藩の第6代藩主。直勝系井伊家10代。
4代藩主・井伊直存の三男。母は古川氏(貞松院)。正室は老中で有名な田沼意次の次女・宝池院。子は奥平松平忠翼(次男)、井伊直経(七男)、娘(井伊直広正室)、娘(井伊直亮継室)、娘(毛利高翰正室)、娘(戸沢正親継室)。官位は従五位下、従四位下、兵部少輔、左京大夫。
[編集] 略歴
寛延3年(1750年)5月4日、江戸にて生まれる。
宝暦10年(1760年)12月25日、先代藩主の兄・井伊直郡が死ぬ前日にその養嗣子となり、翌年2月18日に後を継いで藩主となった。大坂城加番や奏者番を努め、天明元年(1781年)9月には西の丸若年寄、文化元年(1804年)8月には城主格となり、参勤交代を行うことが義務化された。
文政2年(1819年)12月20日、江戸で死去した。享年70。婿養子としていた井伊直広は寛政4年(1792年)閏2月に早世していたため、その子の井伊直暉が後を継いだ。墓所:東京都墨田区向島の弘福寺。
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