今治城
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今治城址 | |
通称 |
吹上城、吹揚城 |
城郭構造 |
輪郭式平城(海城) |
天守構造 |
層塔型5重6階 |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 |
藤堂氏、松平(久松)氏 |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、堀、模擬再建天守、復元櫓 |
位置 |
今治城(いまばりじょう)は、伊予国越智郡今治(愛媛県今治市通町)にあった城。
[編集] 沿革
1602年(慶長7)、藤堂高虎によって築城開始され1604年(慶長9)に完成した。普請奉行として渡辺勘兵衛の名が知られる。今治城完成以前の今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城であったが、より能率的な都市経営を目指すため築城された。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている。
二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りだった。1609年(慶長14)高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。高虎自身は移封されたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城した。
1635年(寛永12)高吉は伊賀国名張に移り、代わって伊勢国長島城より松平(久松)定房が入城し、以後、明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となった。広大な城郭は江戸260年間保たれたが、明治維新以後、廃城令によりに建築物は破却された。
現在は石垣と内堀が残る。1980年(昭和55)に5重6階の天守が再建されている。この天守は移築されたと伝わる丹波亀山城の古写真をもとに再現したものであるが、本来飾りのない層塔型天守であったにもかかわらず、威風のためか破風や張り出しを設けて、事実上模擬天守といってもよいものを再建してしまったことは、研究者や愛好家などから大きな批判も受けている。現在の天守がある場所には江戸時代は二重櫓が建てられていた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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