伊良子光顕
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伊良子 光顕(いらこ みつあき、元文2年(1737年)x月x日 - 寛政11年9月10日(1799年10月8日))は、江戸時代の外科医、官人。字は孝伯、号は無荒。最後の官位は正六位下長門守。「顕」の正字は「顯」。
伊良子道牛の実孫で、道牛の確立した「伊良子流外科」の継承者。光顕は、祖父の代に名声を得た医術をさらに発展させたが、伊良子流外科の源流である西洋医学の論理を自分の目で確認するために、腑分けの実施を熱望するようになる。その願いが叶い、宝暦8年5月28日(1758年7月2日)、山脇東洋・栗山孝庵についで日本で3番目の腑分けを行った。このとき、光顕は弱冠22歳(数え)の青年であったが、山脇東洋が気づく事のなかった大腸と小腸の違いを見分ける事に成功している。光顕はこの腑分けの体験を元に、「外科訓蒙図彙(げかきんもうずい)」という医学書を明和4年(1767年)に執筆した。
これらの業績によって光顕の医家としての名はさらに轟き、宮門跡であった青蓮院の医師に取り立てられ、さらには安永6年(1777年)、御典医として後桃園天皇に仕えて滝口武者の官職を与えられ、後に長門守に補せられた。
光顕には実子の後継者がいなかったため、門人の吉井光通を婿養子に迎え、伊良子家を継がせた。