佐田繁理
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佐田 繁理(さだ しげり、1954年12月13日 - )は、さだ企画代表取締役社長。シンガーソングライター・さだまさしの弟。妹は歌手の佐田玲子。日本人初のプロサッカー選手でもある。長崎県長崎市出身。
芸能活動はしていないものの、兄さだまさしのヒット曲と同タイトルの映画『関白宣言』(1980年公開)に主演したことがある。これは、当初さだまさしに出演依頼が来ていたのだが、まさしは当時『翔べイカロスの翼』という映画を制作中であり、スケジュールが合わないという理由から弟を紹介したところ(佐田兄弟は見た目が似ている)、監督が気に入ったため出演となった[1]。また1983年には、『ふしぎな國・日本』にも出演。さらに、兄のまさしによれば映画『連合艦隊』でも出演オファーが来ていたらしいが、そのまま俳優の道を進むことはなく、1991年の春よりさだの個人事務所「さだ企画」の社長として完全に裏方に廻り、以降、兄・妹そしてチキンガーリックステーキを支えている。ただし、さだ企画事務所スタッフも出演するような公演(いわゆるファンクラブ対象のまさしんぐWORLDコンサートなど)に出演したことはあり、その時は兄妹の名にあわせ「さだ繁理」と表記することもある。
繁理は兄妹想いであり、兄まさしのステージトークのネタには「弟と犬」という、小学生の頃に妹の玲子を噛んだ近所の犬に繁理が腹を立て、犬に真剣勝負を挑んだ時の話がある。また、まさしが東京で一人暮らしをしている頃に困窮して金を送ってくれと電話したものの、両親が不在だったため、繁理がなけなしの小遣いを兄に送金した、ということもあったという。
[編集] サッカー選手としての佐田繁理
中学時代からサッカーを始め、高校に入学すると、その直後から試合に出場するようになる。この頃、「試合展開を読める面白さに気付き始めた」という。
高校卒業後、台湾大学へ留学し、サッカー部に入部。かなりの腕前であったらしく、また関係者から日本名を名乗っている中国移民(華僑)の子と勘違いされたため、台湾大在籍中に台湾の代表チームに招集された(1974年)。しかし、当然ながら日本人であるので実際に試合に出ることはなかった[2]。
翌1975年、香港のサッカーチーム「東方足球隊」にスカウトされ、プロとして活躍した。これは実は奥寺康彦より早いプロ契約であり、日本人初のプロサッカー選手ということになる[3](2005年に日本サッカー協会の川淵三郎会長のラジオ番組に兄さだまさしがゲスト出演し、この件を確認したこともあり、認められている)。ちなみに、当時はこの移籍に関し、新聞に小さな記事が出た程度であったという。
なお、ポジションはフォワード(左ウイング)。
「東方足球隊」で1年間活躍した後、体調を崩して引退。その後は英語の勉強のためニュージーランドへ移り、1977年に帰国する。再びサッカーを続ける意志はあったというが、当時日本にはプロリーグがなく実業団が主であり、職業選手としてサッカーを続けるにはチームを持っている企業に就職する必要があった。進路について悩んでいたところへ、「グレープ」解散後事務所を独立し、ソロになった兄のまさしから声をかけられ、説得されてサッカー選手としての引退を決意。以後はさだまさしの個人事務所である「さだ企画」の運営に専念し、兄を助ける立場に回ることとなった。
[編集] 佐田繁理をモデルとする作品
兄であるさだまさしの楽曲にはしばしば「弟」が登場する。
- 親父の一番長い日
- ヨシムラ
- 薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク
このほか、「案山子」は留学中の繁理を題材に歌ったものといわれる。
また、まさしの児童文学作品『ふうせんのはか』は、少年時代の繁理が縁日で買った風船がしぼんでしまったため墓を作ったエピソードが元になっている。
一方、妹の佐田玲子も「兄貴をよろしく」という楽曲を作っている。
直接のモデルではないものの、白鳥座の楽曲に「タイムアップ」というサッカーをモチーフにしたものがあり、当時白鳥座のマネージャーであった繁理の影響がうかがえる。
[編集] 注
- ^ まさし自身は「ひやかし出演」という形で、チョイ役による出演をしている。
- ^ 招集記念パーティーが開かれた数日後に関係者が「華僑だよな?」と確認してくるまで、日本人とは思われていなかったという。
- ^ これは同時に海外のプロチームで活躍した日本人選手の第1号ということでもあり、そのことから雑誌Number(665号)にインタビュー記事が掲載されている。
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