奥寺康彦
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奥寺 康彦(おくでら やすひこ、1952年3月12日-)は、日本人として2人目のプロサッカー選手であり、現役当時、世界最強リーグと言われたブンデスリーガの目の肥えたファンからも「東洋のコンピューター」というニックネームを授かるほどの実績を残した選手。現在は株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)代表取締役社長兼ゼネラルマネージャー。
日本サッカーが不遇の時代に海外で一線級の活躍をした選手で、釜本邦茂以来の超大物と言える。欧州のトップリーグでこれほど長きに渡って中心選手として活躍した日本人は、後にも先にも出ていない。近年、欧州での中村俊輔、高原直泰、松井大輔などの日本人選手の活躍が目覚しいとはいえ、未だ奥寺の実績には追いついていないというのが現状である。
日本人初のプロサッカー選手として認識されることが多い奥寺だが実際には2人目であり、奥寺より2年早い1975年に香港の「東方足球隊」でプレーした佐田繁理(現・さだ企画代表取締役社長、シンガーソングライター・さだまさしの実弟)が日本人初のプロサッカー選手である。しかし、世界最高峰とされる欧州で初めて日本人プロとしてプレーをしたという実績は輝かしいものである。
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[編集] 来歴
父の転勤のため大湯小4年で神奈川県横浜市に転住。横浜市立舞岡中でサッカーを始め、相模工大付属高校から1970年に古河電気工業サッカー部(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)入り。1976年に古河がブラジル工場を持っていた縁でブラジル・パルメイラスに2ヶ月間留学して急成長し、ユース代表を経て日本代表のエースFWの一人となった。同年は代表ではムルデカ大会で得点王に輝き、古河ではJSL、天皇杯の優勝に貢献した。
1977年夏に日本代表がドイツ合宿を行った際、当時の代表監督・二宮寛はドイツ1部リーグ・ブンデスリーガの1つ1FCケルンの監督であったヘネス・ヴァイスヴァイラーと親しかったことから、奥寺ら数人をケルンのチーム合宿に参加させてもらった。ちょうどケルンはスピードのある左ウイングプレーヤーを捜していた所に、ヴァイスヴァスラーがほれ込むだけの力を持った左ウイングの奥寺が来たことで、彼に正式にオファーを出すことになった。当初、奥寺はヴァイスヴァスラーからのオファーを断った。それはまだJリーグがなかった時代で、いわばアマチュア選手だった奥寺は、家族も養わなければならず、ブンデスリーガに挑戦しても果たして通用するのかどうか、失敗したら家族はどうなるのかという不安からオファーを断ったのである。しかし、再びヴァイスヴァスラーからのオファーが届いた奥寺は家族に相談して、ついにドイツ行きを決めたのである。
同年10月、1FCケルンに入団し日本人で初の欧州チームでプレーするプロサッカー選手となった。10月7日にケルンに到着して契約をかわし、12日にはブンデスリーガのベンチ入り。10月22日、対MSVデュースブルク戦で先発デビューを飾った。年末、12月20日に行われたドイツカップ準々決勝、シュバルツバイス・エッセン戦で初ゴール(2得点)、ブンデスリーガでは明けた78年4月8日のカイザースラウテルン戦で初ゴールを記録。名将・ヴァイスヴァイラーの下で数々の活躍をみせ、チームの1977-78シーズンの優勝とドイツカップ優勝の二冠に貢献する。優勝を決めた試合では途中出場ながら2ゴールを挙げた。
その後、ヴァイスヴァイラーのアメリカ・NASL・ニューヨーク・コスモス移籍に伴い、後任監督カールハインツ・ヘダゴットの下で出場機会が減ったことに伴い80/81年シーズンの後半、当時ブンデスリーガ2部だったヘルタ・ベルリンへ移籍。1部昇格にチャレンジしていたヘルタは最終的に昇格を逃したが、その直後ヘルタに競り勝って1部昇格を決めたヴェルダー・ブレーメンの監督だったオットー・レーハーゲルに見出され、81/82年シーズンからブレーメンに移籍。一部昇格と同時にチームの大黒柱として活躍。
元来「左ウイング」としてブンデスリーガに渡った奥寺。しかしレーハーゲルは、守備的MFとしての奥寺の能力に注目。守備の強さ、堅実そのもののプレーに惹かれ、80年代なかばからヨーロッパの主流の3-5-2システムのなかで、奥寺は左ウイングバックという「天職」を得る。守備をしながら、味方ボールになると、ウイングそのものになって攻撃の中核を担う。そうしたプレーはレーハーゲルをして「オク1人で他の選手の3人分の働きをしてくれる」と絶賛を受ける。
1982年、1部1年目のブレーメンは、5位という好成績を残し、翌83年にはハンブルガーSVに次ぎ2位、そして84年5位、85年、86年と連続して2位。その間、奥寺は最もコンスタントな選手として監督に信頼され、ファンから愛された。
ブンデスリーガには都合9年間在籍。63試合連続出場記録を樹立するなど、帰国するまでの9年間でブンデスリーガ通算235試合出場、25得点を挙げ、UEFAチャンピオンズカップにも6度出場する活躍を見せた。
その後「まだ自分の体が言うとおりに動くうちに」日本のサッカー界に持てる全てを伝えたいとして、1986年に惜しまれつつ日本に帰国。帰国後は古巣の古河電工に入団し、1988年度までプロ選手としてプレーした後引退。
その後古河電工からJリーグ参戦のためクラブチーム化された「東日本JR古河サッカークラブ」(1992年にジェフ市原→現・ジェフ千葉・市原となる)のゼネラル・マネジャーを担当し1996年には監督に就任した。ただし成績は振るわず、1年で退任している。
1999年に横浜フリューゲルスのサポーター有志で結成された「横浜フリエスポーツクラブ」(横浜FC)のゼネラルマネージャーに就任、2000年からは代表取締役社長を兼任して今日に至る。
[編集] 逸話
- 奥寺は何故ドイツであれだけ長くプレーできたのかと質問された際に、自分はスーパーな選手ではなかったけれども、例えて言うなら1+1を必ず2にできるような確実性は持っていたからだろう、と述べている。
- ドイツで行われた2006年FIFAワールドカップ予選抽選会においてドローアーアシスタントに選ばれた。アジア連盟からは釜本邦茂が推薦されていたが、ドイツとの関係が深い奥寺が選ばれた。
- キャプテン翼37巻の77ページにて、経歴の説明と共に実名で登場している。みずからの実力を試すために、翼は同氏に勝負を挑んだが、同氏をぬくことはできなかった。
- また第22回(1986年-1987年)日本サッカーリーグの公式ポスターモデルとして出演し、その時「サラリーマンサッカーの時代は終わった」というキャッチコピーが登場し、日本サッカーがプロ化へ向かうことを象徴した。
[編集] 経歴
- 1970年-1977年 - 古河電工
- 1977年-1980年 - 1.FCケルン(西ドイツ)
- 1980年-1981年 - ヘルタ・ベルリン(西ドイツ)
- 1981年-1986年 - ヴェルダー・ブレーメン(西ドイツ)
- 1986年-1988年 - 古河電工
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 32試合 9得点(1972-1987)
- 国際Bマッチ 2試合 0得点(1972)
- 国際Cマッチ 45試合 10得点(1970-1988)
年度 | 国際Aマッチ | 国際Bマッチ | 国際Cマッチ | |||
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出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |
1970年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
1971年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1972年 | 6 | 1 | 2 | 0 | 4 | 0 |
1973年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1974年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1975年 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1976年 | 8 | 7 | 0 | 0 | 3 | 0 |
1977年 | 4 | 0 | 0 | 0 | 25 | 8 |
1978年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1979年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1980年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1981年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1982年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1983年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1984年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1985年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1986年 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
1987年 | 5 | 1 | 0 | 0 | 10 | 2 |
1988年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
通算 | 32 | 9 | 2 | 0 | 45 | 10 |
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