佐野房綱
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佐野 房綱(さの ふさつな、1558年(永禄元年) - 1601年7月31日(慶長6年7月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。佐野宗綱の弟(一説には宗綱の叔父とも言われている)。天徳寺宝衍と号する(なお、「天徳寺了伯」の号は、「唐沢城老談記」や「唐沢軍談」などに見られるものの、房綱本人のものと思われる書状には「宝衍」と記されているものが大半である。)。
先代の当主・宗綱が1583年に戦死した後、佐野氏の家中では御家安泰のために、北条氏康の子で北条氏政の弟に当たる北条氏忠を養嗣子に迎えて後を継がせようという意見があった。しかし、佐野一族の一人である房綱はこれに強行に反対して佐野氏を出奔し、中央に出て豊臣秀吉に仕えるようになる。1590年、秀吉の小田原征伐のとき、秀吉に北条氏の動員可能兵力、地形などの情報を教えた功績により、北条氏滅亡後、佐野氏の領地である唐沢山城と3万9000石の所領、そして家督を継ぐことを許された。
子が無かったため、秀吉の家臣・富田信高の弟に当たる佐野信吉を養嗣子として迎えている。1601年、死去。戦国時代においては、剣術の達人の一人であったと言われている。