北条氏忠
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北条 氏忠(ほうじょう うじただ、? - 文禄2年4月8日(1593年5月8日))は戦国時代の武将。父は北条氏康(六男)。佐野氏忠。左衛門佐。正室は佐野宗綱の娘と乗讃院。子は乗賛院との間に娘の姫路がいる。
1582年の本能寺の変後に空白地となった甲斐国を巡っての徳川氏との争いでは、後北条氏の将として最前線で行動。1586年、下野国の豪族佐野氏の当主佐野宗綱が足利長尾氏の当主長尾顕長との争いで戦死すると、氏忠が宗綱の養子として佐野氏を継いだ。宗綱の弟佐野房綱はこれに憤慨して出奔している。小田原の陣では小田原城に篭もる。1590年、後北条氏が滅亡した後は伊豆国河津で隠遁生活を送り、1593年に死去。
法名は大閑院殿大嶺宗哲大居士。 乗讃院と姫路は毛利輝元に後北条氏滅亡後あずけられていたが、毛利氏の関ヶ原での敗戦による周防・長門移封時に、長門に知行1000石を与えられ、乗讃院が寛永7年6月26日に没した後、毛利氏家臣の出羽元盛次男出羽就之が姫路の婿養子となる形で家名は存続し、元盛とその子孫は北条姓を称した。なお姫路は、寛永18年11月9日に没し、就之は延宝4年7月9日に57歳で没した。