信夫山治貞
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信夫山 治貞(しのぶやま はるさだ、本名:本間 栄、1925年3月21日 - 1977年9月2日)は、福島県伊達郡(現伊達市)出身の大相撲力士。小野川部屋所属で、最高位は関脇。
[編集] 来歴
1940年5月に初土俵。1944年、幕下入りを目前にしたところで応召し、朝鮮半島北部で敗戦を迎えた。ソ連の収容所に送られたが脱走し、偽名を使ってソウルまで逃れ、なんとか引揚船で博多港へと帰り着いた。
1946年11月場所、吾妻山の四股名(四股名はいったん本名の本間に戻した後、1949年10月場所で信夫山と改名した)で大相撲に復帰し、翌年11月場所で十両に昇進。しばらくは十両と幕下との間を往復したが、大関増位山の胸を借りて実力を増し、1950年9月場所で入幕した。技能派力士として注目され、1955年1月場所には小結に昇進し、これから3場所連続で勝ち越したにもかかわらず関脇に昇進できなかったのは、小部屋で番付運が悪かったためと言われている。
研究熱心で知られ、足腰を鍛えるために鉄下駄をはいて山手線を回ったり、左手を強化するために左手で箸を持って米や豆をつまむ練習をしたりしたというエピソードがある。1958年3月場所の初日には新横綱の若乃花を降しているが、これは相撲雑誌の表紙に載った若乃花の写真を見て立会いを研究した成果だという。このような努力の成果もあって、1958年7月場所で関脇に昇進した。しかし3場所関脇を保ったものの、以降は古傷の腰痛が悪化して十両まで落ち、椎間板ヘルニアのために1960年9月場所で引退した。年寄竹縄から山響を襲名したが、1965年9月に廃業し、1977年52歳で没した。
鋭い出足からのもろ差しの型を得意とし、「りゃんこの信夫」というあだ名がつけられた。モンローウォークに似た歩き方にも特徴があり、特に若い女性に人気があった。
[編集] 主な成績
[編集] 関連項目
カテゴリ: 福島県出身の大相撲力士 | 1925年生 | 1977年没