光田健輔
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光田 健輔(みつだ けんすけ、1876年1月12日-1964年5月14日))は日本の医師。国立長島愛生園初代園長。正三位勲一等瑞宝章。文化勲章受章。日本の対ハンセン病政策の明暗を象徴する人物とされている。
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[編集] 評価
かつては、ハンセン病治療に携わった医師ということで、ハンセン病患者への救済事業に積極的に取り組んだパイオニア的な存在であり、「救らいの父」と評価され、文化勲章を受章した。
[編集] 批判
しかし、近年になって1943年にハンセン病特効薬プロミンが開発され、1947年にはプロミンによる治療が日本でも開始されたにもかかわらず、戦前の隔離政策を継続した1953年制定のらい予防法に積極的に関わるとともに、法の存続に力を入れたこと、優生学に基づく患者に関する強制断種(ワゼクトミー)の実施など、ハンセン病患者の強制隔離・断種を推進し、ハンセン病患者に対する差別を助長する元凶を作った人物としてハンセン病元患者や藤野豊などのハンセン病を専攻している近代史の学者などから批判が上がっている。
患者救済と差別助長という矛盾した行動を取った背景について、藤野豊は「らいは恐ろしい伝染病であり、らい患者が存在することは文明国の恥である」という光田独自の考えがあったからではないかと論じている。また、光田に師事した医師犀川一夫によれば、「たとえ病原菌が無くなっても、世間の差別の目のせいで元患者が社会復帰するのは難しい。だからあえて隔離するのだ」と主張していたと述べている。(但し、犀川自身はハンセン病国家賠償訴訟における証人の場でハンセン病隔離政策は誤りであったと主張としてしており、間接的にではあるが、光田のハンセン病に対するスタンスを批判している。)
[編集] 経歴
- 1876年(明治9年)1月12日 - 現在の山口県防府市に生まれる。
- 1896年 - 済生学舎を卒業し医術開業試験に合格する。
- 1898年 - 東京帝国大学医科大学専科(病理特科)を卒業し、同年7月に、東京市養育院に勤務する。翌1899年にかけて、院内に「回春病室」を開設、ハンセン病患者の隔離に取り組む。
- 1908年 - 東京市養育院副医長に就任。
- 1909年 - 公立癩療養所全生病院医長に就任。
- 1914年(大正3年)- 全生病院長に就任するとともに保健衛生調査会委員に就任し、ハンセン病予防事務視察のため、欧米各国などに渡る。
- 1915年 - 断種手術(ワゼクトミ-)による断種を行う。男女別に収容されていた患者間に子供が生まれた。所内結婚(通い婚)を認める代わりに、男性患者に対して断種手術を施した。
- 1919年 - ハンセン病の病型を診断する「光田反応」を発表。
- 1931年(昭和6年) - 国立長島愛生園の初代園長に就任。
- 1951年 - 文化勲章受章。山口県防府市並びに岡山市名誉市民。
- 1957年 - 3月退官。長島愛生園名誉園長。
- 1964年5月14日 - 死去。享年89。叙・正三位、勲一等瑞宝章追贈。遺骨は長島愛生園にある万霊山遺骨堂に納められた。
[編集] 関連項目
- ハンセン病
- らい予防法
- 無らい県運動
- ハンセン病訴訟
- 国立ハンセン病療養所
- 宮崎松記
- 林芳信