内藤家長
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内藤 家長(ないとう いえなが、1546年(天文15年) - 1600年9月8日(慶長5年8月1日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。内藤清長の子。内藤正成の従弟。妻は松平忠長の娘。内藤政長の父。義兄に内藤信成がいる。
[編集] 来歴・人物
三河の内藤氏は家長の祖父の代から松平氏(徳川氏)に仕えた譜代の家臣の家柄であり、父・清長が晩年になって儲けた子の家長は徳川家康に仕え、義兄の信成から内藤家の家督を譲られて跡を継いだ。
父の清長と同様に武勇に優れており、また弓の名手で「無双の弓手」と称えられた。また、父同様に一向一揆の門徒でもあったが三河一向一揆の時に家長は父と訣別して、一揆方に加わらず義理の伯父に当たる家康に従軍し、一揆衆を鎮圧するなどで忠節を貫き、家康から大いに信頼された。
以降も徳川家主要の合戦の多くに参加し、大いなる武功を挙げた。その功績から家康が関東に移った時、上総国佐貫の地に2万石の所領を与えられた。
慶長5年(1600年)、鳥居元忠や松平家忠らと共に伏見城を守備して石田三成ら西軍の挙兵を誘った。目論見どおり、三成ら西軍は挙兵したが、家長は元忠、家忠らと共に関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻防戦で戦死した。齢55。彼の死後、家督は長男の政長が後を継ぎ、戦死した父の功績を賞されて、1万石を加増されている。
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