伏見城の戦い
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伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)は、慶長5年(1600年)7月18日から8月1日まで行なわれた関ヶ原の戦いの前哨戦。
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[編集] 略歴
[編集] 背景
豊臣秀吉の死後、次の天下人の座を狙う徳川家康は慶長5年、度重なる上洛命令を無視した上杉景勝を、公儀に反する逆臣として、会津攻めを開始した。すでにこの前年には、家康と互角に渡り合えるほどの実力を備えていた親豊臣派の大老・前田利家が病死し、五奉行の石田三成ら反家康派らも失脚を余儀なくされていた。そのため、家康は畿内の守りとして、譜代の家臣である鳥居元忠、内藤家長、松平家忠、松平近正ら1800名ほどの兵を伏見城に残すに留めたのである。
そして、家康をはじめとする徳川軍主力が会津攻めに向かったため、畿内が軍事的空白地域となった。その最中の7月、遂に石田三成は毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継ら反家康派諸大名を糾合して挙兵した。そして7月17日には家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を叩きつけたのである。そして7月18日には、西軍総大将である毛利輝元の名で、伏見城の守将・鳥居元忠に対して伏見城明け渡しの命令を突きつけた。しかし、家康に死守を命じられていた元忠は敢然とこれを拒絶する。これにより、西軍は大挙して伏見城を包囲、攻撃を開始するのであった。
[編集] 伏見城の戦い
伏見城攻城軍の総大将は宇喜多秀家、副将は小早川秀秋。その他には毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂らなど4万の大軍であった。これに対して、守備軍は鳥居元忠を総大将とした1800人。伏見城は豊臣秀吉が築き上げた巨郭であったが、兵力差から考えれば短時日で攻略するはずであった。ところがである。城将の鳥居元忠以下、城兵が思わぬ奮戦を見せ、さらに包囲軍の内部にも三成らに強制的に西軍として与させられた者もいたため、戦意が思ったよりも上がらなかったのである。このため、伏見城はなかなか落ちなかった。
そこで名将・島津義弘が長束正家に命じてある策略を実行に移させた。正家は近江水口城の領主であったため、甲賀衆とも親しい仲にあった。伏見城内には徳川氏の伊賀衆の他に甲賀衆もいる。正家は義弘の意を受けて、伏見城内にいた甲賀衆の妻子一族を捕縛させた上で、自分たちに内通しなければ家族を磔にすると脅迫したのである。甲賀衆は驚愕した。そして直ちに裏切って、伏見城内に火事を起こした上で内応したのである。さすがの元忠らも、味方から裏切られては支えきれず、8月1日に討死して果てた。
[編集] 影響
この戦いは、9月15日に行なわれることになる関ヶ原本戦の前哨戦であった。この戦いでは三成ら西軍は結果的には勝利し、次のような書状を諸大名に対して宣伝材料として配送させている。
- 「伏見の城。在番に関東二千ばかりこれ在る間。即時に諸手より乗り崩し、大将鳥居彦右衛門を始め候て、一人も残さず討ち果たし候。誠に以て天罰と申す事に候」
しかし、戦略的に見れば、この戦いはすでに三成ら西軍の敗戦であったとも言える。まず、本来なら数日で落とせたはずの伏見城攻防戦に10日以上もの期間をかけたこと、これは西軍のその後における美濃・伊勢方面に対する攻略が大きく遅れる遠因となったし、西軍の内部が必ずしも一枚岩ではないことを表面化させるには十分な出来事だったと言えるのである。
また、近年の説では、徳川家康は鳥居元忠らわずかな守備兵を伏見城に残して会津攻めに向かったのは、三成ら反家康派を挙兵させることに狙いがあったと言われている。事実、家康は7月18日の時点ではまだ江戸城にあり、7月21日になってようやく江戸城を進発し、会津に向かって進軍を開始したのである。