円成寺 (奈良市)
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円成寺 | |
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![]() 本堂(重要文化財) |
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所在地 | 奈良県奈良市忍辱山町1273 |
位置 | 北緯34度41分44.98秒 東経135度54分55.42秒 |
山号 | 忍辱山(にんにくせん) |
宗派 | 真言宗御室派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | (伝)天平勝宝8年(756年) |
開基 | (伝)虚瀧、聖武・孝謙両天皇(勅願) |
正式名 | |
別称 | |
札所等 | 大和十三仏12番 |
文化財 | 春日堂・白山堂、木造大日如来坐像(国宝) 本堂、楼門、宇賀神本殿、石造五輪塔、木造阿弥陀如来坐像、木造四天王立像(重要文化財) 庭園(名勝) |
円成寺(えんじょうじ)は、奈良市忍辱山町(にんにくせんちょう)にある真言宗御室派の寺院。山号は忍辱山、本尊は阿弥陀如来。
奈良市街東方の柳生街道沿いに位置する古寺で、運慶の作品としてはもっとも初期に属する大日如来像を所蔵することで名高い。
目次 |
[編集] 沿革
寺に伝わる「和州忍辱山円成寺縁起」によれば、天平勝宝8歳(756年)、聖武・孝謙両天皇の勅願により、唐からの渡来僧で鑑真の弟子にあたる虚瀧(ころう)により開創され、万寿3年(1026年)に命禅が再興して十一面観音を祀ったという。しかし、鑑真とともに来日した僧の中に虚瀧なる人物は実在せず、奈良時代にさかのぼる遺品、出土品等も見当たらない。以上のことから、この草創縁起は後世の仮託と思われ、「中興の祖」とされている命禅が円成寺の実質的な開基であると推定されている。
平安時代末期の保元元年(1156年)、京都仁和寺の寛遍が東密忍辱山流を開いて寺運は興隆した。この頃に本尊が当初の十一面観音から阿弥陀如来に代わったと思われる。
応仁の乱(1466年-1476年)の兵火により堂塔伽藍の大半が焼失したが、栄弘が入り再興された。江戸時代は寺中に子院23か寺を有するほどであったが、明治維新の際の混乱により現在の姿となった。
[編集] 境内
正門にあたる楼門の前には平安時代の面影を残す、池を中心とした浄土式庭園(名勝)が広がる。楼門を入ると本堂を中心に鎮守社の春日堂、白山堂、宇賀神本殿、多宝塔などが建つ。
現存する多宝塔は平成2年(1990年)の再建で、旧多宝塔は大正9年(1920年)、老朽化のため撤去された。ちなみに、鎌倉市の長寿寺にある観音堂は、旧円成寺多宝塔の初層部分の材を用いて建てられたものである。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 春日堂・白山堂-安貞2年(1228年)-本堂の脇に建つ2棟の社殿で、2棟とも同規模・同形式である。春日造社殿の現存最古の例として国宝に指定されている。明治初期の神仏分離令による破壊をまぬがれるため、仏堂風に「堂」と称した。
- 木造大日如来坐像-台座内部の銘により、安元2年(1176年)、仏師運慶の作であることがわかる。運慶は東大寺・興福寺などの復興造仏に尽力し、鎌倉時代を代表する仏師として知られるが、この作品は作者の20歳台後半頃の、現存するもっとも初期のもので、時代的には平安時代末期に入る。像高約99cmの寄木造、漆箔仕上げの像で、光背、台座も大部分当初のものが残る。作風は平安時代風を残しつつ、均整が取れ、引き締まった体躯表現、張りのある表情などに運慶の特色が現われている。もと本堂内に安置されていたが、多宝塔に移されている。
[編集] 重要文化財
- 本堂-室町時代の建築だが、全体の意匠は寝殿造風である。入母屋造で妻入(屋根の形が三角形に見える方向を正面とする)とするのは仏堂建築には珍しい。寺の説明には文正元年(1466年)建立とあるが、文化庁の資料では棟木銘から文明4年(1472年)建立としている。内部には本尊阿弥陀如来坐像と四天王立像を安置する。内陣の柱には阿弥陀如来に随って来迎する二十五菩薩の像が描かれている。
- 楼門-応仁2年(1468年)建。
- 宇賀神本殿
- 石造五輪塔
- 木造阿弥陀如来坐像
- 木造四天王立像
[編集] 名勝
- 円成寺庭園 - 平安時代後期の作庭
[編集] 所在地
- 奈良県奈良市忍辱山町1273