前園真聖
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前園 真聖(まえぞの まさきよ、1973年10月29日 - )は鹿児島県薩摩郡東郷町(現・薩摩川内市)出身の元プロサッカー選手。マネジメント事務所サニーサイドアップ所属。
1996年のアトランタオリンピックで日本がブラジルに勝利した、マイアミの奇跡のときのサッカー日本代表キャプテン。
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[編集] 経歴
小学生のとき、4歳年上の兄の影響でサッカーを始める。
ビデオがきっかけでマラドーナに憧れ、繰り返しビデオを見てはドリブルの練習に明け暮れる毎日を送る。
サッカー部のない中学校に進学するものの陸上部に所属しながら創部にこぎつけて活躍、その頃から県選抜に選ばれるなど、名前を知られるようになる。
1992年、鹿児島実高からJリーグ・横浜フリューゲルスに入団。 当時フリューゲルスは長崎・熊本・鹿児島の3県を特別活動地域(ホームタウンに準じる地区)としていたこともあって、地元出身の前園をチームの看板選手としてPRする狙いもあったようだ。
1994年にはアトランタオリンピックを目指すU-21日本代表に選出されるとともに、ファルカンに見いだされてA代表にも選出され、2つの代表チームを掛け持ちすることになった。
1995年には日本サッカー協会の方針によりアトランタオリンピックアジア地区予選に専念することとなり、チームの主将として日本の28年ぶりとなるオリンピック出場に貢献した。
1996年、アトランタオリンピック本大会に出場、ブラジルを破るなどし、サッカーファンに限らず広く注目されることとなる。 かねてから海外でのプレーを希望し、そのための絶好のアピールの舞台と公言していたが、自身が目指している攻撃的なサッカーで世界の強豪との勝負ができず、守備偏重でグループリーグで2勝を挙げたものの結果として得失点差により敗退してしまったことで、より攻撃的なサッカーをする海外で自らの力を試したいという意識を強く持つようになる。
また、これに前後してオリンピックの始まる前、6月にスペインリーグのセビージャから関係者が来日し、フリューゲルスと移籍交渉を行っている。 まだ当時は有力選手の海外移籍は前例に乏しく、Jリーグほとんどのチームが消極的であったことが背景にあったが、あくまでアジアの知名度の低い国の若手選手というセビージャ側の評価と、チームの看板選手である前園を安易に移籍させるわけにいかないフリューゲルス側のチーム事情とが合致せず、この話は不調に終わる。
同年シーズンオフには、スペインへの移籍が叶わずクラブに不信感を募らせた前園と海外移籍の決断を渋るフリューゲルスとの間で契約交渉が暗礁に乗り上げ、とうとう移籍リストに掲載されるに至った。 このとき、三浦知良の海外移籍を容認した前例のあるヴェルディ川崎(現在の東京ヴェルディ1969)から獲得希望があり、2ヶ月にわたる紆余曲折の末ヴェルディへの移籍が決定した。この時の移籍金は、当時最高額の3億5千万円(推定)(現在の最高額は阿部勇樹の(推定)4億円)。前園自身は移籍記者会見の席で、ヴェルディが海外移籍を容認したことを移籍理由のひとつに挙げた。 しかし、ヴェルディが世代交代のさなかでチームの力が低下していたことに加え、前園本人も移籍問題に端を発する内外からのプレッシャーから体調管理に問題を抱え、クラブで力を発揮しきれずにいる間に日本代表での定位置を失う。
1998年のシーズン途中からブラジル・全国リーグ1部のサントスFCにレンタル移籍。 すぐさま出場機会を得てゴールを決めるなど活躍が期待されたが、1999年初頭には同じブラジルのゴイアスECにレンタル移籍した。 その後も欧州挑戦の夢は絶ちがたく、1999年秋にはポルトガルのギマランイス、冬にはギリシャのPAOKサロニカと接触したが、ともに本契約には至らなかった。
2000年シーズンに加藤久の仲介によってJ2・湘南ベルマーレで国内リーグ復帰を果たし、2001年には本所属である東京ヴェルディ1969に戻ったが、降格争いをするチームの構想から外れ2002年シーズン途中に解雇された。
2003年に、事務所を株式会社カレッジリーグに移し、Kリーグ (韓国リーグ) の安養LGチータースに移籍。
2004年に同じKリーグの新チーム・仁川ユナイテッドと契約したが、2004年末で契約が解除された。
2005年セルビア・モンテネグロ1部リーグのOFKベオグラードの入団テストを受けるなどするものの本契約には至らずに5月19日、引退を表明。
その後は日本テレビの高校サッカー選手権中継で解説者を務める一方、少年サッカーの普及促進活動などにも参加している。
2006年にはホノルルマラソンに参加、5時間43分で完走した。
[編集] 所属クラブ
- 横浜フリューゲルス(日本)1992-1996
- ヴェルディ川崎(日本)1997-1998途中
- サントスFC(ブラジル)1998途中-1999
- ゴイアスEC(ブラジル)1999
- 湘南ベルマーレ(日本)2000
- 東京ヴェルディ1969(日本)2001-2002
- 安養LGチータース(韓国)2003
- 仁川ユナイテッドFC(韓国)2004
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 20試合 4得点(1994-1997)
年度 | 試合 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|---|
出場 | 得点 | ||
1994年 | (9) | 6 | 0 |
1995年 | (16) | 4 | 0 |
1996年 | (13) | 7 | 4 |
1997年 | (24) | 3 | 0 |
通算 | 20 | 4 |
[編集] 個人成績
年度 | チーム | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1992年 | 横浜F | J | - | - | - | ||||
1993年 | 横浜F | J | - | 24 | 2 | ||||
1994年 | 横浜F | J | - | 38 | 8 | ||||
1995年 | 横浜F | J | - | 40 | 7 | ||||
1996年 | 横浜F | J | - | 26 | 8 | - | - | ||
1997年 | V川崎 | J | 7 | 28 | 5 | ||||
1998年 | V川崎 | J | 7 | 22 | 3 | ||||
2000年 | 湘南 | J2 | 10 | 38 | 11 | ||||
2001年 | 東京V | J1 | 11 | 13 | 1 | ||||
2002年 | 東京V | J1 | 11 | 0 | 0 | ||||
J1通算 | - | - | - | 191 | 34 | ||||
J2通算 | - | - | - | 38 | 11 |
[編集] 評価
切れ味鋭いドリブルと、精度の高いフリーキックが特徴的である。 特にそのドリブルは顕著で現在でもJリーグの歴代トップクラスのドリブラーであると評価する向きが少なくない。 とは言え、キャリア後半には試合への出場機会が減っていたこともあり、切れ味を感じられた期間は短かった。
また、1990年代以降のサッカー戦術において、攻撃的プレーヤーであっても前線での守備が要求されるが、前園は守備に対する意識に乏しかったので監督の信頼を得ることが難しかったと推測できる。 その例として、守備的な戦い方をしたアトランタオリンピック本大会で監督の西野朗と彼とは、戦術を巡ってしばしば激しい衝突があった。
またフランスW杯日本代表監督だった加茂周監督(途中で解任)からはトップ下として非常に期待されていたが、期待に応えることはできず、結局日本代表からはずされ、トップ下のポジションはC大阪の森島、当時のベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)に在籍していた中田英寿などに奪われることとなった。期待に応えられなかった理由は、守備意識や運動量の欠如のため、加茂監督の戦術である「ゾーンプレス」に対応できなかったと言われる。加茂監督の前園に対する期待は大きく、時に余人を排して2人きりでコンコンと説得する姿が何度か見られたが、結局プレースタイルを変えることはできなかった。
おそらくは、このときに加茂監督の戦術に対応してフランスW杯で活躍できていればヨーロッパへの移籍も実現できていた可能性もあり、自らの手で己の可能性を閉じてしまった可能性もある。
Jリーグおよび日本代表のスター選手であったがゆえに、前園の評価・露出は試合以外の部分にも及んだ。
特にアトランタ・オリンピック前後の期間において、マスメディアへの露出は相当の数に上り、それはサッカーやスポーツと無関係なコマーシャルにまで及んだ。
前園のサッカー人生が順風満帆でなかったのは、上述したスペイン移籍の挫折に加えてこうした過度のメディア進出に伴うコンディション調整不足と慢心があったのではないか、という評価もある。
ただしこうした評価については、むしろ前園を被害者とみなし、日本のマスコミを批判する文脈で語られることが多い。例として、フィリップ・トルシエ(元日本代表監督)が前園を例示しつつ、怪我をした小野伸二に対するメディアの過度な期待を批判したことが挙げられる。これにより、スター・システムという言葉が日本でも広く知られることとなった。
[編集] 関連項目
- オリンピックサッカー日本代表選手
- マイアミの奇跡
- U-31(前園がモデルとなる「河野敦彦」というキャラクターが登場している)
[編集] 外部リンク
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