前田利謙
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 明和4年12月22日(1768年2月10日) | |||
死没 | 享和元年8月26日(1801年)10月3日 | |||
別名 | 岩太郎、雄次郎(幼名) | |||
戒名 | 寛隆院殿宝山仁量大居士 | |||
墓所 | 富山県富山市長岡の長岡御廟 | |||
藩 | 越中富山藩主 | |||
官位 | 従四位下、出雲守 | |||
氏族 | 加賀前田氏 | |||
父母 | 父:前田利與、母:山田氏(住) 養父:前田利久 |
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兄弟 | 前田利謙、恒子、亀吉、峰子、前田利晃 | |||
妻 | 正室:毛利重就の娘・長 側室:幾勢、稲、花町、美須 |
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子 | 松次郎、勝子(前田利幹室)、 栄子(宗義賢室)、前田利保、 光子、美子、養子:前田利幹 |
明和4年(1767年)12月22日、第6代藩主・前田利與の長男として江戸で生まれる。天明7年(1787年)8月6日に第7代藩主・前田利久の養子となり、同年に利久が死去したため、家督を継いで第8代藩主となる。
天明8年(1788年)3月28日、幕命により美濃・伊勢などの河川の手伝い普請に駆り出され、その出費により藩財政がさらに悪化したため、藩士の知行借上げ、株仲間の認可などを積極的に行なったが、あまり効果は無かった。
享和元年(1801年)8月26日に死去。享年35。次男の前田利保は幼少のため、大聖寺藩から迎えた養子の前田利幹が後を継いだ。
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