毛利重就
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毛利重就(もうりしげたか、享保10年9月10日(1725年10月15日) - 寛政元年10月7日(1789年11月23日))は、江戸時代の大名である。長州藩第8代藩主、長門長府藩第8代藩主。
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 享保10年9月10日(1725年10月15日) | |||
死没 | 寛政元年10月7日(1789年11月23日) | |||
別名 | 岩之丞(幼名)、匡敬(初名)、重就(しげなり) | |||
諡号 | 英雲公 | |||
戒名 | 英雲院殿前二州太守四品吏部大郷羽林次将祐山如靖 | |||
墓所 | 山口県萩市の東光寺 | |||
官位 | 従五位下、甲斐守 従四位下、侍従、大膳大夫、左近衛少将、式部大輔 贈従三位(明治41年) |
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藩 | 長門長州藩主 | |||
氏族 | 毛利氏 | |||
父母 | 父:毛利匡広、母:性善院(飯田氏) 養父:毛利宗広 |
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兄弟 | 演暢院(有馬一準室)、毛利師就、毛利政苗、 毛利広定、毛利重就、増山正贇 |
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妻 | 正室:登代(立花貞俶の娘) 側室:利尾(家臣飯田存直の娘) 側室:留楚(佐竹氏家臣武藤群次の妹) 側室:種織(家臣河野通貞の娘) |
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子 | 毛利匡満、毛利治親、毛利匡芳、毛利親著 友(山内豊雍室)、勢代(有馬頼貴室)、好(松平信亨室) 佐代(鷹司輔平室)、澄(松平忠啓室)、娘(内藤信旭室) 長(毛利匡邦室→前田利謙室)、娘(井伊豊吉婚約者)、 娘(近衛経熙婚約者) 養子:毛利重広、誠(松平容頌室) |
目次 |
[編集] 経歴
享保10年(1725年)長州藩の支藩である長府藩主毛利匡広の十男として産まれる。しかし、兄が次々と早逝し、享保20年(1735年)長府藩第7代藩主である兄毛利師就が死去した際に、師就の実子・多賀之丞(教逵)は出生が幕府に未届けで相続が認められず、師就の弟の毛利政苗、毛利広定は、それぞれ清末藩主、右田毛利家を継いでいたため、仮養子として届けられていた岩之丞(重就)が第8代藩主として家督を相続する事になった。また、宝暦元年(1751年)には本家にあたる長州藩第7代藩主毛利宗広が早逝し世嗣がない事などで末期養子として第8代藩主として家督を相続する。
長州藩は、天災による米の不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し財政赤字に陥っていた。重就は、藩主就任と同時に家老坂時存、長沼正勝ら三家老を招集し改革案の提出を要請する。宝暦3年(1753年)「三老上書」が提出される。内容は、経費の削減などから新田開発、荒廃田の復旧、築港による流通整備などが掲げられていた。
重就は、まず検地を行い8年後には、4万石になる収入を得ることに成功し、この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させこちらの収入として充てる。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764年)鶴浜の開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積、中関の港整備を行う。
港の改良により回船の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い利益を得る。撫育方がほぼすべてにあたった。
また、塩田開発も進め明和年間には21万石に上がる収益を得たと言われている。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れた。一方で、過度な年貢取り立てなどの政策は一揆に悩まされる事にもなった。
天明2年(1782年)に重就は、家督を治親に譲り隠居し、7年後の寛政元年(1789年)死去、享年64。
[編集] 家系
- 父:毛利匡広
- 母:側室(飯田氏)
- 養子
ほか
ほか
- 側室:留楚(佐竹氏家臣武藤群次の妹)
- 毛利匡芳
- 毛利親著
[編集] 伝記
- 小川国治『毛利重就』(吉川弘文館人物叢書、2003年) ISBN 4642052267
[編集] 関連項目
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