前田長泰
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前田 長泰(まえだ ながやす、元禄3年(1690年) - 宝暦13年10月3日(1763年11月7日))は、江戸時代の高家旗本。公家高辻長量の次男。生母は高辻豊長の娘。初名は正長、賢長。通称は靭負。官位は従四位上左少将・信濃守。
宝永4年(1707年)7月25日将軍徳川綱吉に御目見した。それにともなって幕臣となり、小姓並として蔵米300俵を支給されることになった。同年12月18日従五位下侍従・伊豆守に叙任した。後に信濃守に改めた。宝永5年(1708年)1月9日300石を加増されて、武蔵国多摩郡内で600石を支配することになった。宝永6年(1709年)2月21日高家職に就いた。正徳3年(1713年)12月23日遠江国内で400石を加増された。延享4年(1747年)1月12日高家肝煎となる。その後、従四位上左少将にまで昇進した。宝暦13年(1763年)10月3日死去、74歳。
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