旗本
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旗本(はたもと)とは、主として江戸時代に徳川将軍家直属の家臣団のうち、石高が1万石未満で儀式などで将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格をもつものの総称。もとは戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、徳川時代のみの制度ではない。
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[編集] 戦国時代の旗本
戦国時代には、国人領主等の独立的軍団を構成している幕下層(家臣ではないが臣下の礼をとり軍事的に従属)とは別に、主君の指揮下に属する直属部隊の家臣を指す場合もある。とくに譜代の家臣を中心に編成され、戦闘時には、主君の本陣備を構成した。当時は、幕下の礼をとり家臣の立場にあったが領国経営では独立していた国人領主層の離合集散が当然のように行なわれていた背景から、主君からすれば、直属の旗本家臣団への信頼は極めて強く、国政にも中心的に関与したと見られる。例えば上杉謙信の家臣の千坂景親のように戦闘時に常に本陣周辺に配置されるため、華々しい戦果を残すことはあまりないが、戦国時代の家臣団の中枢を担うのは、この旗本家臣層にあったといっても過言ではない。
[編集] 江戸幕府の旗本
[編集] 概要
江戸時代の旗本は、三河から勃興した徳川氏の家臣が代表的である。ほかに北条、武田、今川の遺臣、大名の一族や、改易大名の名跡を継ぐ者、遠隔地の豪族で大名になりきれなかった名族、かつて戦国大名や、守護大名などであった赤松、畠山、別所、北条、富樫、最上、山名、武田、今川、大友、織田、金森、滝川、筒井、土岐、福島正則の嫡流、庶流の末裔などから構成。
石高が8,000石前後で大名待遇の家格を持つ「大身旗本」及び、徳川将軍家の本家筋に当たる加茂郡松平郷を支配した松平信広(通称、松平太郎左衛門)の家系(420石)は、交代寄合と呼ばれた。
儀礼等を司る役目を負う吉良・畠山・今川・武田等の旧名門の家格出身者は家臣団とは別格の高家と呼ばれた。高家ははじめ吉良家など3家であったが、次第に増加して26家となった。高家は1,000石級の者が多く、家柄や官位に比して、家禄は少ないことが多い。高家肝煎は、10万石級の大名と同じ官位が与えられることもあったが、石高は最高でも5,000石未満であった。
御目見以下の家格の者は御家人と呼ばれた。
[編集] 旗本の生活
旗本・御家人は武家諸法度により統制され、若年寄の支配下におかれた。江戸集住が原則で、交代寄合には知行所に陣屋が与えられ、一般には3,000石以上の旗本には大名に準じた知行権(統治権)を有して死刑などの重刑裁判以外の行政権・司法権を行使し、大部分を占めた500石以下は徴租権(年貢の納入)以外の知行権は幕府の代官または郡代に委任される事になっていた。幕府は基本的には領主である旗本が知行権を行使することを好まずこれを抑制する方針を取ったが、税収の確保や領内の不祥事は領主である旗本の責任とされるために、500石以下であっても自らの知行権を積極的に行使する旗本も存在していた。
俗に「旗本八万騎」と呼ばれたが、1722年の調査では総数約5,000人、御目見以下の御家人を含めても17,000人の規模であった。ただし、旗本・御家人の家臣を含めると、およそ80,000人になると言われている(これに対して10万石の大名に許された兵力は2,155人である)
旗本で、5,000石以上の者は、交代寄合を含み約100人。3,000石以上の者は約300人であり、旗本の9割は500石以下である。
なお、宝永年間の記録によれば、旗本の地方高(知行地を与えられていた者の総禄高)は275.4万石で全体の64%を占め、切米・蔵米・扶持受給が石高換算で153.4万石を占めていた。知行地は全国に広がっているものの、関東地方が全体の8割を占め、特に江戸のある武蔵国が全国の旗本知行地の21%、近隣の上総国が12.5%、下総国が11.0%を占めていた。
旗本は石高が低い割には軍役負担が大きく、また石高調整のために相給が行われる事が多く、極端な場合では13名の旗本が1村を分割知行するなどその支配は困難を極め、更に江戸集住の原則から知行取・蔵米取を問わず早くから消費者化が進んだ。幕府成立から30年後の寛永年間には早くも「旗本の窮乏化」が問題とされている。寛政の改革の棄捐令の背景もこうした事情があった。
また、小禄や無役の旗本は将軍に拝謁の資格があったものの、実際に拝謁できたのは家督相続・跡式相続のときのみであった。
江戸時代初期には無頼化した旗本奴が存在し、男伊達を称して徒党を組み、市井の町奴と対立し、歌舞伎や講談の題材にもなった。
[編集] 旗本の役職
江戸では江戸城の警備や将軍の護衛を行う大番、文官である町奉行・勘定奉行・大目付・目付などの役職についた。無役の旗本は3,000石以上は寄合、以下は小普請に編入された。
旗本の最高の役職は、江戸城留守居である。8代将軍吉宗が、御三卿を創設してからは、その家老職も、江戸城留守居に準ずる地位とされたが、3,000石級の旗本から抜擢されることも珍しくなかった。御三卿は、江戸城内に屋敷を持ち、将軍家の家族として取り扱われたため、御三卿の家老は陪臣ではない。
この他、5,000石以上の大身旗本は、将軍側衆、側御用取次、大番頭、書院番頭、小姓組番頭、駿府城代に就任することができた。
幕府が重要都市に置いた遠国奉行は、1,000石級の旗本から、任じられたが、伏見奉行は、譜代大名からも任じられた別格のポストであった。東海道から、京に入る要所であり、大名と朝廷を近づけないために、参勤交代の途中で、伏見より京に進むことは、認められていなかった。また将軍の行幸があった日光奉行も、他の遠国奉行より、やや格が高かった。猟官運動が盛んに行われたのは、長崎奉行であり、貿易に絡む賄賂に近い副収入が見込めたことで、人気が高かった。長崎では奉行によっては、大きな財産を築いた旗本もいた。
一方、100石から200石程度の小禄の旗本は、小十人の番士、納戸、勘定、代官、広敷、祐筆、同朋頭、甲府勤番支配頭、火之番組頭、学問所勤番組頭、徒(徒士)目付の組頭、数寄屋頭、賄頭、蔵奉行、金奉行、林奉行、普請方下奉行、畳奉行、材木石奉行、具足奉行、弓矢槍奉行、吹上奉行、膳奉行、書物奉行、鉄砲玉薬奉行、寺社奉行吟味物調役、勘定吟味改役、川船改役をはじめとする諸役職についた。旗本の下位の役職には、御家人が就任することもあった。
広敷の役人、賄頭、勘定吟味改役は、小禄の旗本の中から、有能な者が選ばれていた。
江戸時代中期以降になると軍事・警備部門で、御家人から旗本に昇進する例は、ほとんどなくなる一方で、広敷や勘定奉行の下役人となり、旗本に昇進した者が出た。
旗本の資格がない者が、旗本になる場合は、旗本の役職に3代続けて就任することが原則であったが、将軍に謁見が許されれば御目見得の士として、直ちに旗本として認められた。
太平の世が続くと、番方と呼ばれる警備や軍事に関する役職は、家柄で選ばれる一方で、役方と呼ばれた行政職(文官)は能力主義を加味した人事が行われる傾向が出てきた。こうした中で200石以上、500石未満の旗本の場合は、老中直属の会計検査役で勘定奉行の次席格でもある勘定吟味役か、幕府収入の4分の1を消費した大奥の庶務責任者として出納の権限や出入り業者の選定権を持った広敷用人となるのが、一応の出世の到達点とされた。
なお、番方は小姓組・書院番・大番・新番・小十人組の5つに分類される。これを五番(方)という。
町奉行所附きの与力は、馬上が許され200石(200俵)以上の俸禄を受ける者も少なからずいたが、旗本ではなかった。
旗本の仕組みに大きな変化を見せるのは、開国後の安政3年(1856年)に老中阿部正弘が築地に講武所を開いて、西洋の銃術・砲術を含めた集団戦の訓練を旗本に命じてからである。続く文久の改革によって銃術・砲術を修めた旗本たちの中から実力主義によって士官が選抜されるなどの急速な軍制改革が行われるようになった。だが、既に財政的に窮乏の極地にあった旗本には軍役を負担するだけの余力は失われていた。そこで遂に慶応3年(1867年)9月、旗本に対する軍役が事実上廃止され、知行所からの収益金の半分を軍役金を徴収(年4回の分納)する事になった。この制度は1回目の納付の途中で大政奉還を迎えてしまい、十分に機能する前に幕府が崩壊することになるが、もしこの制度が機能していれば軍役を失った旗本の存在は幕府の「士官候補生」・「官僚予備軍」にしか過ぎなくなり、仮に江戸幕府が存続していたとしても旗本の意味合いは大きく変質していたであろう。
[編集] 江戸幕府の旗本の定義
江戸幕府(徳川将軍家)の旗本とは、歴史教科書にあるように、1万石未満の将軍直属の家臣で、将軍との謁見資格(御目見得以上)があることで、定義されるほど厳密には、そう単純ではない。
狭義の旗本は、200石(200俵)以上、1万石未満の将軍直属の家臣で、交代寄合、高家、及び1万石未満でありながら大名扱いを受けた喜連川氏を除くということになる。
広義の旗本とは、1万石未満の将軍直属の家臣で、交代寄合や、高家を含めると共に、200石(200俵)未満で、雪駄履きで馬上となる資格がなく、将軍に謁見できる直参も加えることになろう。1万石未満の喜連川家は、大名扱いをされたので、広義の旗本にも含まれない。
また親藩や譜代大名の家臣は、陪臣であるから、将軍に謁見できないのが原則であるが、由緒ある家系には、旗本の格式が与えられることがあった。この場合、将軍に謁見の資格を持ち、参勤交代のときに関所で下馬することを免除された。従って最広義の旗本とは、大名及び、大名の扱いを受ける者以外で、将軍に謁見の資格をある者を指す。