劉安世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
劉安世(りゅう・あんせい、1048年-1125年)中国・北宋時代の官僚・学者。字は器之。
[編集] 略伝
大名(北京大名府)の出身。1073年に進士に及第する。洛州司法参軍・河南府左軍巡判官をへて、哲宗即位とともに司馬光の推薦により秘書省正字に任ぜられ、呂公著の推薦で右正言に抜擢される。さらに起居舎人と左司諫を兼ね、左諫議大夫と出世する。性質は剛直で当時の顕官を糾弾してやまなかった。呂恵卿が光禄卿に復せられたときにその不可を論じて恵卿を國の「巨蠧」(きくいむし)と罵り、鄧溫伯が翰林承旨に任ぜられると其安石の党に出入りしたことを挙げてその件を斥け、胡宗愈・蔡確・章惇・黄履・邢恕・李常・盛陶・王彭年などはみな安世の弾劾を蒙って降格された。そのため殿中虎と呼ばれて怖れられ、朔党の領袖として重きをなしたが、その判断はやや偏頗であることを免れなかった。
哲宗が親政を始めた1094年に章惇が宰相に任ぜられるさいにその不可を上奏したことが僭越とされ、知南安軍・小府小監・分司河南と徐々に左遷され、1096年には新州別駕英州安置にまで落とされた。蔡京はさらに安世の一家を誅滅しようとしたが哲宗が許さなかったためにわずかに事なきを得て、梅州に移された。徽宗が即位すると赦免されて集賢殿修撰・知鄆州・知真定府となったが、蔡京が宰相となると峡州に左遷され1102年には元祐党石碑(旧法派を「奸人」として裁くための名簿)に入れられた。のちに宮中に復帰して龍圖閣直学士となり78歳で没する。
[編集] 学問と著作
司馬光に学んでその学統を承け、禅を好みその影響を受けている。元城先生と呼ばれその門下には呂本中を始め、孫偉・李光・胡珵・馬大年などがいる。『通鑑音義』10巻を著し『文集』20巻があるといわれたが長年伝わらず、明代の隆慶年間に張應福が奏箚類の鈔本を発見して『盡言集』13巻として刊行した。徽宗の頃の永城県主簿であった馬永卿が撰集した『元城語録』3巻に、明代の崔銑が『行録』1巻を編纂してこの語録に附した。
[編集] 参考
- 『三朝名臣言行録』
- 『宋元学案』
- 楊万里『朝奉劉先生行状』