蔡京
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蔡京(さいけい、1047年 - 1126年)は、北宋末の政治家、宰相、書家。字は元長。興化郡仙游県(福建省仙游県)の人。
行政官僚として有能であったが、権力欲の強い人物で、主義主張に節操がなかったといわれている。英宗期の蔡襄の従孫で、弟は蔡卞。また、蔡攸ら数人の息子がいた。
[編集] 略要・人物
[編集] 生涯
熙寧3年(1070年)に進士及第。当時は弟蔡卞の昇進が早かった。そのため蔡卞が兄蔡京に官職を譲るよう打診したことがあり、朝廷では美事とされた。後、蔡京も頭角を現し、神宗朝最末期には国都開封府の長官となった。
神宗が崩御し、宣仁太后が政権を握ると、その信任の下、旧法派に主唱者司馬光は募役法を廃し、差役法の復活を図った。司馬光はこれを5日間の期限で実行するように命令した。しかしもともと司馬光の指揮も御都合主義的な所が多く、また司馬光の想定していた差役法そのものが、もはや実施不可能なほど現実から乖離していた。そのため多くの地方官はその改廃に戸惑い、到底期日を守ることができなかった。しかるに蔡京は開封府という最も困難な場所にいて、期日通りに法令の改廃を行い、司馬光を感動させた。しかし彼は神宗朝には新法に与して新法を讃美し、旧法が行われるや否や旧法を指示するという態度であった為、旧法派の急先鋒であった劉安世・王巌叟らから激しい批判を受け、下野せざるを得なくなった。
宣仁太后の政権も九年ほどで終わり、哲宗皇帝が親政を始まると、再び新法が復活する。この時、多くの旧法派官僚が追放され、代わって新法派官僚が登用されることになった。当時の権力者章惇や曾布は熱心な新法推進派であり、新法を国是と見做していたのだが、蔡京のことは余り信用しておらず、その為に蔡京も目立った活躍はなかった。しかし彼は着々と後宮や宦官と結託し、自らの出世の糸口を探っていたと言われている。またこのころには既に弟蔡卞との仲は最悪で、その妻同士も互いに憎みあっていたといわれている。
哲宗皇帝の親政も六年余りで終わり、徽宗朝が始まる。この徽宗朝は当初こそ、神宗皇帝の皇后向太后の指導の下に建中靖国をスローガンとして、新法派と旧法派の調停を目的としていた。このとき新旧両派より韓忠彦と曾布を宰相として迎え、蔡京も中央に返り咲いたが、曾布は蔡京を信用せず、一度は罷免された。しかし向太后の急逝にともなう徽宗親政の開始、その寵臣童貫のとりなしなどで蔡京は速やかに中央に復帰した。
徽宗朝に於いて蔡京は、延べ16年間太師(宰相)の地位につくほどに権力を一身に集めた。その為には新旧両党いずれを問わず、彼に反対のものは放逐し、それらを一括りに旧法派と見做して「奸党」といって貶めた。放逐された旧法党人は三百余人におよび、またその子孫も禁固処分として科挙の受験資格を奪った。こうして生れた「奸党」の人名一覧が「元祐党石碑」である。しかしこの石碑には、本来明らかに新法派に属する章惇や安燾といった政治家の名まで含まれており、蔡京の旧法弾圧に名を藉りた、権力掌握策の実体を明らかにしている。なお蔡京はこの外にも、新法の名のもとに民衆から重税を取り立て、徽宗を喜ばせる為に大土木工事を行い、王朝の財政を放漫化させた。このことは当時と後世とを問わず、彼の評判を一層凶悪なものとすることになった。
徽宗朝末期には既に権力は蔡京からその息子・蔡攸に遷っていたが、名目は蔡京が権力を握っていることになっていた。このころ、突如として勃興した金と結び、北宋政権長年の念願であった燕雲十六州を奪取するという功績を挙げた。しかし朝廷は金の実力を侮り、金との盟約を何度も破ったため、1125年に中華の奪取を狙った金の攻撃に遭い、あえなく北宋は滅亡する。(靖康の変)
金軍の進行による北宋の廃滅の直前、徽宗は長子の欽宗に譲位した。欽宗はもともと蔡京政権を好んでおらず、また金の来襲に怒った世論を抑える必要もあり、蔡京に一貫して反対し、在野を余儀なくされていた李綱を召還して善後策を練らした。こうして蔡京・蔡攸父子、及び宦官童貫・梁師成ら六人は六賊とされ、遠所に流罪に処せられた。蔡京はその筆頭に数えられ、流罪の途上潭州で病没した。流罪決定の直後には死刑の宣告が出されたのだが、蔡京は病没したために死刑は免れた。そのため、当時の人々は死刑を免れたことを悔しがったといわれている。なお『水滸伝』にも4姦臣の一人として高俅と共に名が挙げられている。
[編集] 補足
蔡京の一面として、文化人という側面がある。彼は書道の達人であり、宋代の蘇東坡・黄魯直・米元章と合わせて四絶と称された。しかし、宋の四大家には、蔡京は人柄に問題があるとして代わりに彼の従祖父の蔡襄が数えられている。他にも絵画や文章・詩なども巧みな才人であった。これらの素養が風流天子などと称される徽宗と馬のあった理由ではないかといわれている。
近年、蔡京や徽宗の文化人的要素を重視して、徽宗朝を評価しようという動きが一部研究者の間でなされている。それは如上の政治的な問題とは一旦切り離し、南宋政権との連続‐非連続、及び文化的爛熟といった問題に注目することで、徽宗朝を肯定的に捉えようとする考えである。それ故に徽宗朝に中心的な位置を占める蔡京も、肯定的に評価しなければならないとされている。