劉豹
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劉豹(りゅうひょう 生没年不詳)は中国後漢代から三国時代にかけて蜀に仕えた人。故議郎陽泉侯。221年、向挙・黄権・尹黙・譙周らとともに劉備に皇帝位に就くことを勧めた(『三国志「蜀書巻二・先主伝」第二の25年条)。
劉豹(りゅうひょう 生没年不詳)は中国後漢代から三国時代にかけての匈奴の人。南匈奴の単于於夫羅の子、前趙の劉淵の父。
南匈奴で叛乱が起こったことで於夫羅が漢に留まり、196年に漢地で死ぬと、於夫羅の弟呼廚泉が単于の位を継ぎ、劉豹は左賢王となる。後、曹操によって五部に分けられた匈奴の左部を統括する。
匈奴出身者が漢化した後に劉姓を名乗るのは劉豹からであるが、これは前漢代より匈奴と漢との間に姻戚関係があることに由来する。
195年董卓の残党による叛乱に際して、蔡文姫を得て側室とする。207年に曹操により身代金が支払われ蔡文姫が引き取られるまでの間に2子をもうけるが、名は伝わらない。
嫡子とされる前趙の祖劉淵は生年が251年頃であり、相当な長命である。