ショウ周
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譙周(しょうしゅう、199年? - 270年)は、三国時代の蜀漢の政治家、儒学者。字は允南。
巴西郡の人。身長は八尺。はじめ劉璋に仕えたが、劉備が入蜀すると、その家臣となった。このとき、三国志演義では劉備に降伏することを率先して賛成したため、黄権や劉巴から殺されかけたと言われている。後に劉備が皇帝に即位すると、光禄大夫に任じられた。
劉備の死後、劉禅に仕えて、諸葛亮に失敗が多い北伐の中止を求めたことがある。諸葛亮の死後、その遺志を受けて姜維が北伐を再開したとき、その無謀さを諌めるために『仇国論』を書くが、無視されてしまった。263年、魏が蜀に侵攻して来ると、真っ先に劉禅に降伏を勧めたと言われている。
正史『三国志』によると、死の前年、269年に弟子の陳寿が休暇を取るため譙周のもとへ別れのあいさつに来た。譙周は陳寿に、「昔、孔子は七十二歳で、劉向・揚雄は七十一歳でこの世を去った。いまわしの年は七十を越えている。できれば孔子の遺風を慕い、劉向・揚雄と軌を同じくしたいものだ。おそらく次の年を迎えることなく、きっと長の旅路に出るであろうから、二度と会うことはないであろう」と告げたという。このため、陳寿は、譙周は未来を予知することができる術を得ていたのであろうと評している。譙周は杜瓊の讖緯(予言)を学んだが、魏が漢に取って代わる存在と早くから予言されていたのだという。
270年秋、西晋に散騎常侍に任命されたが、重病のため拝命せず、その冬死去した。
陳寿は『三国志』の著者だが、紀伝体の歴史書で本文中に著者本人が登場するのは異例のことである。師匠への傾倒ぶりが現れているものと思われる。また、後世の歴史家の中には劉璋・劉禅の2人の主君に対していち早く降伏を勧めた姿勢を家臣にあるまじき行為と断じて、師匠に対する陳寿の贔屓した執筆態度を問題視する者もいた。