劉備
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劉備(りゅう び ピン音 : Liu Bei 161年 - 223年、在位221年 - 223年)は、中国、後漢末から三国時代の武将。蜀(蜀漢)の初代皇帝。字は、玄徳(げんとく)。 諡号は、昭烈帝(しょうれつてい)。 家系は劉氏。
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[編集] 略要・人物
[編集] 概要
前漢の中山靖王劉勝(景帝の皇子)の庶子の陸成亭侯・劉貞の末裔と称した。黄巾の乱以後の混乱の中で関羽・張飛などを従えて頭角を現し、諸葛亮などの補佐を得て蜀漢を建国した。
「正史」『三国志』では、劉備を諡号の昭烈帝ではなく、“先主”と呼んでいる(廟号は不詳、『蜀書』「先主伝」。なお、二代目劉禅は後主)。これは『三国志』が正統としているのは魏であるので、正統ではない劉備を皇帝としては認めない所以である。后妃に穆皇后呉氏(呉壱の妹)、糜夫人(糜竺の妹)、甘貴人、孫夫人などがいる(その他多数)。子に後継者の劉禅の他、劉永・劉理がいる。同時に、劉封を養子(実子説あり)にしていた。また、少なくとも二人の娘がいた(曹純の捕虜になる)。
[編集] 系譜について
劉備は自ら前漢の第六代皇帝景帝の第八子の中山靖王・劉勝(生年不詳 - 紀元前113年没)の末裔と主張していた。劉勝は劉貞を初め、孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の直接の祖とされる劉貞は、紀元前117年に涿郡涿県の列侯として爵位を賜った。だが、紀元前112年の年始(正月)頃に、彼は皇族のみに課された漢朝への上納金を納めなかったために、叔父の武帝の逆鱗に触れてしまい、侯の地位を取り上げられそのまま涿に住居していたという。そのため、系図もそこで止まっており、劉備との系図の繋がりを確認することは出来ない。以降の劉備の家系は歴史研究学者の事実に基づいた検証の積み重ねの成果と、まだ発掘されてない当時の記録書が発掘されることを期待するのみである。
その一方で、当時の後漢では前漢以来の歴代皇帝の末裔に対して幅広い税の減免が認められていたため、一般の住民が勝手に漢の皇帝の末裔の証しとも言える劉姓を名乗る事は重大な違法行為であり、もちろんそのような事を行なうことは困難であったとされている。そのため、劉備の主張を単純に嘘と決め付ける事は出来ない。
また、中山靖王・劉勝は淫色に耽った王として有名であり、子は50人以上もいたため、約三百年後の当時には中山王の末裔は中山国を初め、涿郡や常山郡などに拡がっていたと思われる。仮に劉備が中山王の末裔だとしても、あまり価値はなく劉備同様に没落して庶民同様に零落した家は珍しくなかったと思われる。 逆に言えば、劉備が中山靖王の末裔だった可能性も充分にあると言える。
なお、『三国志演義』では献帝の前で、劉貞から劉雄までの間の13代を読み上げられるシーンが書かれているが、これはもちろん創作である。
[編集] 史実の劉備
[編集] 若き日
涿(たく)郡涿県(現在の河北省張家口市涿鹿県(涿鹿鎮))の出身。祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には兗州東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備が幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生活していた。
劉備は背が七尺五寸(172.5cm)身体的な特徴として腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う。また、現在残されている肖像画では立派な鬚を蓄えているが、『蜀書』「周羣伝」にある張裕との会話で、張裕は劉備の顔を見て、『潞涿君』(注:潞は露(あらわ)と同音、涿は啄(くち)と同音で、口があらわな人という意味になる。)とあげつらっている。 後に劉備はそのことを根に持ち終始忘れず、劉備が皇帝に即位すると過去の罪を上げて、張裕を処刑したので、劉備にすればカチンとくる一言だったのであろう。(もしかして、髭のことでコンプレックスを感じていたのかもしれない。)
渡辺精一著『三国志人物鑑定辞典』には、≪「膝まで垂れる長い手」は、 『手を動かせる範囲が広い』≒『多才』と解釈することが出来、 自分の耳を見ることも出来る目は、細かい所までよく見ることが出来るという意味に取れ、 『聡明である』意味に解釈出来る。≫というような事が書かれている。
幼い時に天子が乗車する馬車を見て劉備少年は「僕も大きくなったら、あれに乗るんだ」と言った。その際、叔父の劉子敬(劉弘の弟)が甥の口を塞ぎ「滅多なことを言うでない、そんなことを口に出すだけで、わが一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという。
15歳の時に母の言いつけで、従父(叔父)の劉元起(劉雄の甥)の援助を得て、その子の劉徳然(劉備のいとこ)と共に、同郷で儒学者として有名な廬植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に遼西の豪族の庶子の公孫瓚がおり、劉備は公孫瓚に対して兄事しており大変仲が良かったという。
しかし、劉備はあまり真面目な生徒ではなく、勉学よりも、乗馬や闘犬を好み、仲間達の中でも見栄えがある服装で身を包んだ。男伊達を気取り豪侠と好んで交わりを結び、劉備の周囲には多くの若者が集まるようになった。後に中山の豪商・張世平と蘇双とは馬を商って諸国を回っていたが、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。劉備はこの金で人数を集めてその頭目となっていた(或いは、張世平と蘇双の両人は劉備の旧知ともいわれる)。
ちなみに吉川英治の『三国志』では、中国の各地を出廻り、筵を売り渡る母想いの真面目な青年となっている。
[編集] 決起
黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛・簡雍らと共に義勇軍を結成し名を上げた。その功により安熹県[1]の尉(警察)に任命された。しかし、郡の督郵が公務で安熹にやって来た際に面会を断られたのに腹を立てて督郵を襲撃し、柱に縛り付けて杖(じょう)で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。
その後、公孫瓚の元へ身を寄せ、公孫瓚から別部司馬とされ、青州刺史の田楷を助けて袁紹軍と戦った。戦功をたてたので、公孫瓚は劉備を仮に平原の県令(長官)にして、その後平原国の相[2]とした。
公孫瓚は袁術と手を結んでおり、192年、袁術と袁紹が決裂すると、袁術の要請で劉備を高唐に、単経を平原に、徐州牧の陶謙を発干に駐屯させ、袁紹を圧迫した。だが、全て袁紹と、袁紹に味方していた曹操に撃退された。
この頃、地元の平原の人で同姓の劉平は劉備の配下になるのを不快に感じて、刺客を派遣した。そうとは知らずに劉備は刺客を手厚くもてなした。劉備の器量に感激した刺客は殺すのが忍びなくなり、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった。
193年、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めて来たので、田楷と劉備は陶謙の元へと向かい、劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。
194年、曹操は本拠地が呂布に奪われたために撤退し、陶謙は命拾いをした。このため、陶謙は劉備を豫州刺史に推挙して認められた。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとしていた。劉備は初めは断ったものの、親交があった陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。この時に孔融・陶謙の推薦で、北海郡の人の孫乾を参謀として迎えた。
この時に曹操に敗北した呂布が徐州へやって来たので、迎え入れた。その後、袁術が攻めて来たのでこれと対峙し、一ヶ月が経過した頃、下邳の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。196年に楊奉と韓暹が袁術の配下となり徐州・揚州付近を荒らしたために、一計を案じた劉備は、酒宴と称して楊奉・韓暹を徐州と揚州の境目にある海西に招待し、これを謀殺したという。韓暹は命からがらに逃げ出したが、翌年に旧知の張宣に暗殺された。その首級は劉備に届けられたという。
[編集] 流浪
だが、ここで兵を集めたことを呂布が不快に思い、攻めて来たので逃亡し、曹操の元へ身を寄せた。ここで、曹操は劉備の器量を評価して優遇した。しばらくして曹操が上奏し、劉備を豫州の牧に任命して再び小沛に入らせた。だが再び呂布が攻めて来たので、劉備は曹操に援軍を要請した。曹操は夏侯惇を派遣したが、呂布の部下高順に撃破され、劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して呂布を攻めてこれを生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少し躊躇ったが、劉備は呂布がかつて丁原と董卓を殺したことを挙げて諌めた。これを聞いた呂布は激怒し、劉備に対して「こいつが一番信用できないのだぞ!」「劉備め!かつての恩を忘れたか!」と罵詈雑言を浴びせたが、結局、斬首刑に処せられることとなった。
劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にすると言う異例のものであった。 曹操と歓談していた時に曹操から「天下に英雄といえばあなたと私だけだ。袁紹などでは不足だよ」と評されている。
この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊、路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。やがて袁術が討伐途中で死去したため、そのまま徐州に居残った。
劉備は朱霊らが帰還した後に、下邳の守将車冑を殺して徐州を領有し、下邳の守備を関羽に任せて自らは小沛に移った。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が派遣した劉岱、王忠の両将を破った。
だが、劉備の裏切りに激怒した曹操自身が攻めて来ると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われる。
袁紹の長子袁譚をかつて劉備が茂才(孝廉の科目の一つ)に推挙していたので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。袁紹が曹操と官渡でにらみ合っている時に、汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に対して反旗を翻したので劉備はこれに合流して曹操の後背地を荒らしまわった。この時に関羽が曹操の元から逃げ出して劉備のところへ帰ってきた。
その後、曹仁により撃破されて袁紹の所へ帰るが、最早、袁紹の元から離れたいと考え、「荊州の劉表に袁紹との同盟を説いてくる」と偽り荊州へと移動、そのまま劉表の元へと身を寄せた。
[編集] 三顧の礼
劉表から新野城(現河南省南陽市新野県)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇、于禁の軍を博望にて撃破した。劉備の元に集まる人が増えたことで、劉表は劉備を猜疑するようになった。また、劉表は外征に熱心ではなかった。そのため、曹操の烏丸討伐の隙をついて許を襲撃するようにという劉備の進言は、劉表に受け入れられなかった。
この時期のエピソードとして裴松之の『九州春秋』からの引用で「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた」と言う話がある。このことから髀肉之嘆という故事成語が生まれた。
この頃、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操・孫権に対抗するためにはこの荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となるべしという天下三分の計を説かれた。
劉表が没し、劉表の後を継いだ劉琮が曹操に降伏した。諸葛亮は、劉琮を討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断り、逃亡した。劉備が逃亡すると、周辺の住民十数万が付いてきた。そのため、その歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。諸葛亮が住民を捨てて早く行軍するべきだと劉備に進言したが再び「忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。
しかし、曹操の軽騎兵隊に追いつかれると妻子・民衆達を置いて逃亡し、関羽の軍と合流することで態勢を立て直し、更に劉琦の軍と合流した。 孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、諸葛亮を孫権の下に同盟の使者として派遣する。諸葛亮は、孫権の説得に成功して同盟を結び、赤壁の戦いにおいて、曹操軍を破った。
赤壁の戦いの後、劉備は荊州を占拠し、最初は劉表の長子劉琦を傀儡として上表して荊州刺史にたて、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合した。その後程なくして劉琦が死去したために自ら荊州牧となった。劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきた。しかし劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと思ったのでこれを断った。
[編集] 天下三分
211年、蜀の主である劉璋が五斗米道の張魯に対抗するために劉備の兵を益州に入れて欲しいと要請してきた。ところが、要請の使者である法正と張松は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまえと勧めた。諸葛亮らもこの話に乗るように進言し、劉備もこれを受け入れた。
関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら龐統・黄忠・法正などを引き連れて蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。龐統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない」と述べて退けた。
その後、劉備は兵を率いて前線の葭萌へ駐屯し、この地で張魯を討伐するよりも住民たちの人心を収攬することに勤め、来たるべく蜀占領に向けて準備を整えた。212年、曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来た。劉備たちはこれを兵力移動の隠れ蓑にして劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺して、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた。
初めは順調に進んでいたものの雒城にて頑強な抵抗に合い、一年もの長い包囲戦を行なわざるを得なかった。この戦闘中に龐統が流れ矢に当たって死去し(三国志演義では落鳳坡で劉備と間違えられて射殺された)、援軍として急ぎ諸葛亮・張飛・趙雲らが駆けつけたことにより、ようやく雒を落とすことに成功し、さらに成都を包囲。劉璋は降伏した。こうして劉備の蜀の乗っ取りは功を成した。
これにより天下三分の形勢が定まった。
[編集] 三国争覇
蜀を奪って安定した地盤を得た劉備であったが、それは孫権勢力からの警戒を買うことになる。元々赤壁の際に主要な活躍をしたのは孫権軍であって、孫権は、その戦果たる荊州は自軍のものと考えていた。劉備の荊州統治を認めていたのは、曹操への防備に当たらせるためであり、劉備の勢力が伸長しすぎることは好ましいことではなかったのである。
215年、劉備が蜀を手に入れたことで孫権は荊州を返すようにといってきたが、劉備は「涼州を手に入れたら返します」と答えた。涼州は蜀の遥か北であり、劉備がこれを奪うことはその時点で不可能に近く、返すつもりが無いと言ったも同然であった。これに怒った孫権は呂蒙を派遣して荊州を襲わせ、両者は戦闘状態に入る。
しかし、その頃、張魯が曹操に降伏して益州と雍州を繋ぐ要害の地である漢中地方は曹操の手に入った。このことに危機感を抱いた劉備たちは荊州の南三郡を割譲することで孫権と和解し、漢中の攻略を目標とすることになった。
218年、自ら軍を率いて漢中の夏侯淵・張郃を攻め、翌年に黄忠の活躍により漢中を占領する。その後、曹操の軍が漢中を奪還すべく攻めてきたが、篭城してこれを撃退した。
219年、漢中を手に入れた劉備は曹操が216年に魏王になっていたことを受けて漢中王を自称した。漢の高祖が漢中王を称した故事に倣ったものである。
一方、東では荊州を奪還するべく呂蒙たちが策を練っており、関羽が曹操軍の曹仁を攻めている間に荊州本拠を襲い、孤立した関羽らを捕らえ、これを処刑した。これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなる。
[編集] 夷陵の戦い
220年に曹操の嫡子・曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受ける。これに対抗して蜀の群臣は、221年に劉備を漢の皇帝に推戴した。蜀に作られた漢王朝であるため、後漢(東漢)、前漢(西漢)と区別し、蜀漢(季漢)とも言う。
蜀漢皇帝となった劉備は、221年孫権に対して親征(夷陵の戦い)を行なう。だが、翌222年夏、蜀漢軍は陸遜に大敗北し、自ら白帝城に逃げ込み、ここに永安宮を造営して逝去するまで滞在した。
ここで劉備は病を発し、病床に臥せってしまう。そこで劉備は丞相・諸葛亮と劉永・劉理ら諸子を呼び寄せた。諸葛亮には「君の才能は魏の曹丕に十倍する。わが子・劉禅が帝君としての素質を備えているようであれば、これを補佐してくれ。必ずや国に安定をもたらし、統一を果たしてくれると信じている。だがしかし。もし劉禅が補佐するに足りない凡器だと思ったのなら、君が取って代わって皇帝として国家を統率してくれ」と言い遺し、子供達に対しては「悪事はどんな小さなことでも行なってはいけない。善事はどんな小さなことでもこれを行なえ。お前達の父は徳が薄く、これを見習ってはいけない。『漢書』・『礼記』・『六韜(呂尚の兵法書)』・『商君書(商鞅の兵法書)』等々を読んでしっかり勉強せよ。これより丞相(諸葛亮)を父と思って仕えよ。些かも怠ったらばそなたらは不孝の子であるぞ」と言い遺して間もなく崩じた。享年63。
[編集] 評
陳寿の評。「度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。それらは前漢の高祖(劉邦)に通じ、英雄の器を備えていたといえよう。国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、何らの疑念を抱かなかったことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、永遠に手本とすべき事例である。好機を得るための機知や、行動の根幹をなす戦略では、魏武(曹操)に及ばなかったため、勢力の基盤となる領土も、その才能の差に準じて狭かった。しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にも居らず独立したのは、彼らの器量を考えた時、自分を何時までも許容し続けてくれるような人間だとは到底思えないがためにそうしたのである。単純に自分の利益だけを考えての事ではなく、自分にふりかかった災難を避け、殺されないようにするためだったと言えよう」(「弘毅寛厚、知人侍士。蓋高祖之風、英雄之器焉。及其挙国託孤於諸葛亮、而心神無疑貳、誠君臣之至公、古今之盛軌也。機権幹略、不逮魏武、是以基宇亦狭。然折而不撓、終不為人下者、抑揆彼之量必不容己。非唯競利、且以避害云爾」『蜀志・先主伝』)
[編集] その子孫
劉備の子孫は、永嘉年間の八王の乱により劉禅の子孫は根絶やしにされたが、劉永の孫である劉玄のみ生き残った。彼はチベット系氐族の一派である巴氐の酋長の李雄が蜀で建国した成蜀に頼ったという。現在、劉備の子孫が中国の漁山郷という村にいるとされている。他にも曹操、孫権、諸葛亮の子孫が残った村が現在の中国各地に現存し、観光地となっている。
[編集] 三国志演義の劉備
『三国志演義』の中の劉備は、儒教的な道徳を体現するような君子として描かれている。
劉備が安熹県尉の時の督郵を縛り付けたエピソードは、演義では張飛がやったことになっており、劉備が張飛を諌めるエピソードが描かれている。またこの時、安熹県から逃れようとする劉備たちに領民たちが思いとどまるよう懇願するのが描かれている。
演義では、『雌雄一対の剣』・『的盧』を愛用している。(そのうち的盧は『先主伝集解』、『先主伝注』に登場)
桃園結義は架空の出来事であるとされるが、劉備が関羽、張飛を兄弟のように遇したと、正史の三国志にも3人の仲について記述がある。
曹操に追われている時に逃げ込んだ家で、劉備をもてなす食料がなかった主人の劉安は、妻を殺害しその肉を差し出した。それに感動した劉備は、劉安を後年に高官にした(もしくはその家の主人の息子を養子(劉封)にした)と描かれている。
[編集] 参考書籍
- 「正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳、ちくま学芸文庫)ISBN 4-480-08045-7
- 「三国志・人物鑑定事典(渡辺精一 著、学研)ISBN 4-05-400868-2
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
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