加藤唐九郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
加藤唐九郎(かとう とうくろう、1897年(明治30)7月19日(※戸籍上は1898年(明治31)1月17日) - 1985年(昭和60)12月24日)は陶芸家、また陶磁史研究家。愛知県東春日井郡水野村(現・瀬戸市水野町)出身。桃山時代の陶芸の研究と再現に努めた。永仁の壺事件で、人間国宝の資格を失うなどの波乱も味わっている。
子息の加藤重高も陶芸家である。
[編集] 略歴
- 1897年(明治30年) 半農半陶で窯業を営む加納桑次郎・みと夫妻の長男・庄九郎として生まれる。幼少時より窯場になじむ。
- 1908年(明治41年) この年より父・桑二郎が製陶業に専念し、瀬戸町乗越(のっこし、現瀬戸市窯神町)に転居する。
- 1911年(明治44年) 中根塾に入門し、南画・漢籍を学ぶ。
- 1914年(大正3年) 父の製陶工場の一部の使用権を譲り受け、本格的な作陶生活に入る。また、この頃より父方の祖母の家系である加藤家に一家が復籍する(祖父は当初婿養子だったが、その後祖父の加納性を名乗っていた)。これに伴ない、「加藤庄九郎」が同業に多いことから「加藤唐九郎」と改名する。
- 1918年(大正7年) 幼馴染であった5歳年下の妻・きぬと結婚する。この年から本格的な瀬戸系古窯の調査に入る。
- 1929年(昭和4年) 1月、瀬戸古窯調査保存会が発足し、常任理事となる。11月、瀬戸市祖母懐町に製作拠点を移す。
- 1933年(昭和8年) 宝雲社より出版した「黄瀬戸」の中で、瀬戸焼の祖とされてきた加藤四郎景正の実在を疑い、少なくとも開祖ではないと結論づける。これにより大きな非難を受ける。
- 1943年(昭和18) 愛知県西加茂郡に築窯。
- 1952年(昭和27) 織部焼の技術で国の無形文化財有資格者(人間国宝)に認定。
- 1960年(昭和35) 永仁の壺事件。
- 1961年(昭和36) 国の無形文化財有資格者の認定取り消し。
[編集] 編・著書
- やきもの随筆(1962年、講談社)
- 原色陶器大辞典(1972年、淡交社)
- 陶器全集(1976年、宝雲社)共著
- 陶芸口伝(1979年、翠松園陶芸記念館)
- 自伝 土と炎の迷路(1982年、日本経済新聞社、1999年、講談社文芸文庫)
- かまぐれ往来(1984年、新潮社)
- 唐九郎のやきもの教室(1984年、新潮社)
[編集] 関連施設
- 加藤唐九郎記念館(翠松園陶芸記念館)