北勝海信芳
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北勝海 信芳 | |
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四股名 | 北勝海 信芳 |
本名 | 保志 信芳 |
生年月日 | 1963年6月22日 |
出身 | 北海道広尾郡広尾町 |
身長 | 181cm(現役時) |
体重 | 151kg(現役時) |
所属部屋 | 九重部屋 |
成績 | |
現在の番付 | 引退 |
最高位 | 横綱 |
生涯戦歴 | 591勝286敗109休 |
幕内戦歴 | 465勝206敗109休(53場所) |
優勝 | 幕内優勝8回 |
賞 | 殊勲賞3回 敢闘賞3回 技能賞5回 |
データ | |
初土俵 | 昭和54年3月場所 |
入幕 | 昭和58年9月場所 |
引退 | 平成4年5月場所 |
備考 | |
金星1個(北の湖) |
北勝海 信芳(ほくとうみ のぶよし、1963年6月22日 - )は大相撲の力士で第61代横綱。本名は保志 信芳(ほし のぶよし)、北海道広尾郡広尾町生まれ。身長181cm。愛称は「ポチ」。「花のサンパチ組」の一人である。
目次 |
[編集] 現役時代
おじの勤務先の社長が井筒(元横綱北の富士)と知り合いだったことが縁で勧誘される。翌年九重(井筒から名跡変更)から勧誘され東京に転校、この頃から九重の指導で稽古をしていたという。中学卒業の昭和54年(1979年)3月場所に初土俵。同期生には後の横綱双羽黒光司がいる。
昭和58年(1983年)3月場所、19歳で新十両。同じ十勝地方出身で一つ年上の大乃国康がこの場所新入幕で、ライバルといわれはじめる。同年9月に20歳で新入幕。いずれも同期生のなかでは一番早かった。昭和60年(1985年)から三役での好成績が目立ち始め大関候補と呼ばれる。既に大関は5人もいるので状況は厳しかったが、昭和61年(1986年)3月場所に13勝2敗で初優勝、その後も5月場所11勝4敗、7月場所12勝3敗の好成績を挙げる。7月場所は北尾の横綱昇進も懸かっており、北尾が横綱昇進を決めて大関が1人減ることとなったため、大関になった。新大関が決まると師匠は四股名を考えたが出身地十勝にちなんで北十海や十勝海が候補だった。しかし十では10勝止まりになりそうで辞めた方が良いと九重が発言、十勝から読みは十(とう)、字は勝として北勝海(ほくとうみ)に決まった。
大関も5場所で通過して昭和62年(1987年)7月新横綱となった。昭和63年(1988年)5月場所中に持病の腰痛を悪化させ千秋楽を休場、次の7月場所からは3場所連続全休。翌平成元年(1989年)1月場所は直前に発熱も重なり出場が危ぶまれたが、昭和天皇崩御で初日が1日遅れたことが幸いし出場、見事な優勝で再起を果たした。 さらに同7月場所では兄弟子千代の富士と史上初の同部屋横綱優勝決定戦で対戦。敗れはしたものの、その後の相撲でも横綱として充分な強さを発揮して優勝回数も多く重ねていった。
平成2年(1990年)3月場所の千秋楽は、横綱北勝海、大関小錦、関脇霧島(場所後大関昇進)の3人の同点決勝三つ巴戦となった。三つ巴戦の場合は、1力士が二連勝すると優勝が決まるが、二連勝しない場合は延々対戦が続く。最初の北勝海対小錦戦は小錦が勝利。小錦が次の霧島戦に勝てば小錦が優勝だったが、霧島が勝って小錦の優勝ならず。今度は霧島が次の北勝海戦に勝てば霧島の幕内初優勝だったが、北勝海が勝ってまだ対戦は続く。そして次の小錦戦、北勝海が二連勝してようやく北勝海の優勝が決まった。なんと三つ巴の対戦が四つも続くという大熱戦だった。しかし、北勝海の持病である腰痛の影響は大きく、次の5月場所以降は優勝した場所以外の北勝海の成績は、9勝か10勝で終わる事が多く、雲行きが怪しくなった。マイナス190度の冷凍室に入る等さまざまな治療やリハビリを試しつつ、横綱としての懸命の土俵が続いていた。
平成3年(1991年)3月場所は、14日目に同郷のライバルだった大乃国戦との優勝争いトップの1敗対決で、北勝海が勝ってひとり1敗を保持したものの、この一番で左膝を土俵の俵にしたたかに打って負傷してしまった。翌日千秋楽も北勝海の左膝は激痛で、まともに相撲が取れない状態だったが、それを隠し通して横綱土俵入りも難なく務めあげた。この場所千秋楽の結びの一番は、横綱同士の北勝海-旭富士戦で、その結び前の一番は、横綱大乃国-大関霧島戦だった。この場所の霧島は14日迄で既に4勝10敗と負け越して不調、誰もがこの対戦は14日目まで2敗の大乃国が有利と思いきや、大乃国は久々の優勝のプレッシャーがあったのか霧島にまさかの完敗で3敗となり、この時点で1敗だった北勝海の8回目の幕内優勝が決まったのである。その後北勝海は結びの一番の旭富士戦では、痛めている膝を庇いながら自らズルズル下がって敗戦(北勝海の成績は13勝2敗)。大阪の観客や関係者達もあまりに呆気にとられた一番だったが、この場所が北勝海の最後の幕内優勝となった(北勝海が膝をケガしているのを旭富士は分かっていたが、大乃国と霧島は全く知らなかった、という)。
その後北勝海は膝のケガをきっかけに、休場が多くなっていった。当時、4人の横綱が番付に名を連ねていたが、5月場所の千代の富士の引退を皮切りに、次の7月場所では大乃国、翌平成4年(1992年)1月場所では旭富士も相次いで土俵を去り、同年3月にはついに北勝海1人となってしまった。3月場所に再起を賭けて出場したものの、北勝海らしい相撲は全く見られず、初日から2連敗してそのまま途中休場した。北勝海は横綱の責任感からぎりぎりまで復活を目指したが、度重なるケガは回復しないため、同年5月場所直前に番付に名を残しながら、北勝海は28歳10か月の若さで引退を表明した。わずか1年の間に4人の横綱が全ていなくなってしまったのである。なお、北勝海の横綱在位数は29場所(番付上は30場所)だった。
その後同1992年7月場所から4場所の間横綱不在が続いたが、翌平成5年(1993年)1月場所後に曙がついに横綱昇進を果たした。その直後北勝海の引退相撲では、横綱最後の土俵入りに、新横綱になったばかりの曙が太刀持ちを務めた(露払いは当時大関の小錦)。
素質はそれほどなかったが、非常に稽古熱心であり特に千代の富士との稽古は凄まじいものだった。その稽古熱心さから雑用を免除されており、チャンコ番をさせた兄弟子が千代の富士に叱られたという逸話も聞かれる。本人も千代の富士がいなければ綱などとても取れなかったと言う。特に北勝海は幕内昇進後、千代の富士が休場した場所や春場所には滅法強く、その時期での幕内優勝が多かった。頭から当たって突き押しで相撲を取るため、引退直前には額の生え際の毛は擦り切れかけていた。多くの場所でエメラルドグリーンのまわしを使用していた。
また北勝海は、もともとは十両昇進することを最大の目標としていた、とも語っている。富士昇事件を特集した相撲雑誌などに、発言が掲載されている。当時、大関栃光に外見も取り口も似ているといわれ、師匠の九重も栃光の本を渡し読むように助言したという。現役時代の後援会長は鈴木宗男だった。
[編集] 引退後
年寄北勝海のち八角を襲名。八角部屋を立ち上げ北勝力、海鵬ら関取6人を出している。また弟子の数が多く、ことに関取予備軍である幕下が多く所属しており、スカウト活動と育成の手腕に優れている。平成10年(1998年)から1期(2年)だけ監事を務めた。
NHKの相撲中継では、通常横綱経験者は行わない午後1時から2時30分までの幕下以下の取組の解説を1場所に1度担当する。また、サンデースポーツでは「八角親方の金言苦言」というコーナーを持ち、実演を交えた解説を行っている。
[編集] 成績
- 通算成績: 591勝286敗109休
- 幕内成績: 465勝206敗109休
- 幕内在位: 53場所
- 幕内最高優勝: 8回
- 三賞: 殊勲賞3回、敢闘賞3回、技能賞5回
- 金星: 1個(北の湖)
[編集] 関連項目
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