十三湊
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十三湊(とさみなと)は日本の中世から近世にかけて、青森県五所川原市(旧市浦村)十三の辺りにあった湊である。近世以降「じゅうさんみなと」と呼ばれるようになる。
鎌倉時代後期には豪族安東氏の本拠地で、北海道のアイヌと和人との間の重要交易拠点でもあった。天然の良港で、『廻船式目』では三津七湊の1つに数えられる、当時の博多湊に並び称される港湾都市だった。その後、渤海国や朝鮮半島、中国などと貿易が行われていたことは、国立歴史民俗博物館、富山大学、青森県教育委員会、市浦村教育委員会、中央大学などによる十三湊遺跡の発掘調査によって明らかになりつつある。遺跡は東西に延びる土塁を境に、北側には安東氏や家臣たちの館、南側には町屋が整然と配置されていた。
- 「東日流外三郡誌」によれば、興国二年(1341年)の大津波によって十三湊は壊滅的な被害を受け、これにより安東氏政権は崩壊したとのことだが、興国二年以後も十三湊は文献上重要な港として散見されているので、この記述は信じるに値しない(そもそも現在では「東日流外三郡誌」自体が偽書とされている。詳細は同書の項目を参照)。ただし、弘前大学の調査によって、正確な年代は不詳ながら津波が襲った跡の泥の堆積が2回以上確認されており、その点に関してだけはあながち根拠のない主張とも言いかねる。
室町時代中期、安東氏が南部氏によって追われると急速に衰微し、北方との交易地の地位は、野辺地湊や大浜(現在の青森市油川)に奪われた。その後、時代が下るにつれ飛砂が堆積して水深が浅くなり、次第に港としての機能は低下していった。江戸時代には岩木川を下って来た米を鯵ヶ沢湊へと中継する「十三小廻し」が行われた。また、北前船のルート上にあって、深浦湊、鯵ヶ沢湊、三厩湊、青森湊などと共に弘前藩の重要港湾であり、上方から蝦夷地へ向かう船の寄港地として、米や木材の積み出しなどでも栄えた。
現在はシジミの特産地となっている。
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